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   <title>生涯現役エンジニア　ブログ</title>
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   <updated>2012-02-01T06:08:57Z</updated>
   <subtitle>生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。</subtitle>
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   <title>★爆発火災危険有害な化学物質の安全な取扱いの基礎【9月9日】大阪ＪＲ桜ノ宮駅徒歩１分リバーサイドホテル 公益社団法人日本労働安全衛生コンサルタント会研修会 講師は弊社代表田邉</title>
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   <published>2012-02-01T06:05:20Z</published>
   <updated>2012-02-01T06:08:57Z</updated>
   
   <summary>来る2012年9月9日(日)に公益社団法人日本労働安全コンサルタント会が主催する...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="25 技術者向けセミナー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      来る2012年9月9日(日)に公益社団法人日本労働安全コンサルタント会が主催する研修会が開催されます。これは厚生労働大臣登録の労働安全コンサルタント、ならびに労働衛生コンサルタントを対象とした研修会です。分かり易くいうと、労働安全衛生のプロを対象とした研修会です。

      
――　ここへ私田邉康雄が研修講師の一人として選任されました。これは安全プロへ‘安全’を教えると言うことであり安全プロの私も身の引き締まる思いです。同時に感激しています。1994年に厚生労働大臣登録の労働安全コンサルタント試験に合格してコンサルタント会に入会して以来磨いた、この「爆発火災危険有害な化学物質の安全」分野における知識・経験が、評価されたからです。ここへ来るまで、17年かかりました。

――　ところで化学物質による労災といえば、最初に頭に浮かぶものは‘慢性毒性’でしょう。それを防止するために化学物質の「管理区分」が定められています。慢性毒性による区分です。しかし今回の研修内容は、慢性毒性は後回しにして‘急性毒性’を優先します。これを優先する理由は次のとおりです。すなわち急性毒性物質は恐ろしい。取扱い方をまちがうと直ちに死ぬ。慢性毒性物質も恐ろしいが、死ぬのは将来。

――　日本労働安全コンサルタント会の研修会ですが、一般の方も参加可能です。企業、とくに化学会社の安全担当者は是非御参加ください。開催時間は、9：45～16.45であり、４人の研修講師がしゃべります。私はその一人であり、持ち時間は一時間半です。他の研修講師の話も大変参考になるものばかりです。私も毎年受講していますが、安全の仕事に大いに役立っています。

――　会費は以下の通り。
会員：　11,000円
非会員：20,000円。

いずれ該コンサルタント会のホームーページに載るので、内容を確認してください。
http://www.jashcon.or.jp/

あるいは、私田邉康雄に電話または電子メールでお問合わせください。
電話　03-3776-2495　
電子メール　tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

   </content>
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<entry>
   <title>★爆発火災危険有害な化学物質の安全な取扱いの基礎【8月5日】東京ＪＲ田町駅徒歩2分建築会館 公益社団法人日本労働安全衛生コンサルタント会研修会 講師は弊社代表田邉康雄</title>
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   <published>2012-02-01T05:50:08Z</published>
   <updated>2012-02-01T05:56:07Z</updated>
   
   <summary>来る2012年8月5日(日)に公益社団法人日本労働安全コンサルタント会が主催する...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="25 技術者向けセミナー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      来る2012年8月5日(日)に公益社団法人日本労働安全コンサルタント会が主催する研修会が開催されます。これは厚生労働大臣登録の労働安全コンサルタント、ならびに労働衛生コンサルタントを対象とした研修会です。分かり易くいうと、労働安全衛生のプロを対象とした研修会です。

      ――　ここへ私田邉康雄が研修講師の一人として選任されました。これは安全プロへ‘安全’を教えると言うことであり安全プロの私も身の引き締まる思いです。同時に感激しています。1994年に厚生労働大臣登録の労働安全コンサルタント試験に合格してコンサルタント会に入会して以来磨いた、この「爆発火災危険有害な化学物質の安全」分野における知識・経験が、評価されたからです。ここへ来るまで、17年かかりました。

――　ところで化学物質による労災といえば、最初に頭に浮かぶものは‘慢性毒性’でしょう。それを防止するために化学物質の「管理区分」が定められています。慢性毒性による区分です。しかし今回の研修内容は、慢性毒性は後回しにして‘急性毒性’を優先します。これを優先する理由は次のとおりです。すなわち急性毒性物質は恐ろしい。取扱い方をまちがうと直ちに死ぬ。慢性毒性物質も恐ろしいが、死ぬのは将来。

――　日本労働安全コンサルタント会の研修会ですが、一般の方も参加可能です。企業、とくに化学会社の安全担当者は是非御参加ください。開催時間は、9：45～16.45であり、４人の研修講師がしゃべります。私はその一人であり、持ち時間は一時間半です。他の研修講師の話も大変参考になるものばかりです。私も毎年受講していますが、安全の仕事に大いに役立っています。

――　会費は以下の通り。
会員：　11,000円
非会員：20,000円。

いずれ該コンサルタント会のホームーページに載るので、内容を確認してください。
http://www.jashcon.or.jp/

あるいは、私田邉康雄に電話または電子メールでお問合わせください。
電話　03-3776-2495　
電子メール　tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

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<entry>
   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -10  　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(10)。</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2012/01/rok_government_gave_t_ariga_my_9.html" />
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   <published>2012-01-29T02:10:27Z</published>
   <updated>2012-01-29T02:14:13Z</updated>
   
   <summary>Continued from the previous blog. 前ブログ(9...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      Continued from the previous blog. 前ブログ(9)からつづきます。

Japan has brushed up the technology of manufacturing iron &amp; steel which Japan learnt from the people of Korea Peninsula for the sake of making Japanese sharp and beautiful swards. 
      Further more, after Meiji Restoration, we developed a good process for manufacturing large amount of high quality iron &amp; steel, which we needed to build battle ship, cruisers, destroyers, submarines, aircraft carriers in order to compete with U.S.A, and U.K. and so forth. I am very happy that we could have assisted Koreans with the historical technology.

日本は朝鮮半島から習った製鉄技術を、日本刀の製造のために製鉄技術を進化させました。さらに明治時代になって日本は欧米列強に対抗する必要性から富国強兵の道を歩みました。そのため米英に対抗できる大艦隊を必要としました。その過程で戦艦大和など戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、航空母艦の建造に大量の良質鉄鋼を必要としました。このニーズに呼応する過程で製鉄技術水準を向上させました。この高水準技術を韓国などの発展途上の国に提供できたことは、日本にとって大きな喜びです。これが私の感想です。

This is the end of the blog of this series. これでこのシリーズのブログを終わります。

   </content>
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   <title>ＪＲ西日本前社長 無罪確定へ　福知山線尼崎駅脱線事故(3)</title>
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   <published>2012-01-27T08:29:54Z</published>
   <updated>2012-01-27T08:33:02Z</updated>
   
   <summary>「法律はそうなっていないようです」 　と前ブログで書きました。御遺族は社長が業務...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="02-9　ＪＲ西日本福知山線尼崎駅脱線事故" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      「法律はそうなっていないようです」
　と前ブログで書きました。御遺族は社長が業務上過失致死罪を適用されて有罪になることを望んでおられます。
      
思うに、社長個人に対する怨恨ではなくてＪＲ西日本という組織に対する怨恨でしょう。だから、ＪＲ西日本が有罪になってほしいと願望されておられのだと思います。しかし私の知るところによれば、刑法は、自然人だけに適用される法律であり、法人を処罰する一般規定はありません。ですから御遺族が落胆されるのは分かりますが、もって行き所が適切でないと思います。

次のブログに続く。

   </content>
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<entry>
   <title>ＪＲ西日本前社長 無罪確定へ　福知山線尼崎駅脱線事故(2)</title>
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   <published>2012-01-26T01:41:53Z</published>
   <updated>2012-01-26T01:52:43Z</updated>
   
   <summary>前ブログ(1)から続く。 ‘裏切り’と落胆される御遺族のお気持ちはよく分かります...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="02-9　ＪＲ西日本福知山線尼崎駅脱線事故" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      前ブログ(1)から続く。

‘裏切り’と落胆される御遺族のお気持ちはよく分かります。
         私田邉康雄は、仕事の一部に‘安全コンサルタント’をやっており、製造業生産現場の安全指導をしています。この田邉康雄の目からみても尼崎事故は‘拙劣’であったと思います。
狭軌軌道上の曲率半径300メートルのカーブに時速115kmもの猛スピードで突っ込めば、車体が横転することは素人でも分かります。ですから、事故は拙劣です。拙劣だから、その原因をつくった関係者は有罪であると期待します。しかし法律はそうなっていないようです。

次のブログに続く

   </content>
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<entry>
   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -9 　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(9)。</title>
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   <published>2012-01-25T23:39:02Z</published>
   <updated>2012-01-25T23:42:10Z</updated>
   
   <summary>Continued from the previous blog. 前ブログ(8...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      Continued from the previous blog. 前ブログ(8)からつづきます。

I already disclosed that T Ariga was given a complaint by collaborating Japanese, saying, “Mr. T. Ariga gives too much amount of information to Koreans”. 
      I am very sad to hear that he should be to blame in this way. It was quite natural that he sincerely taught Koreans concerning how to commercially manufacture iron &amp; steel. I would hear T. Ariga’s opinion as follows. In ancient age of Japan, we learnt manufacturing process of iron &amp; steel from the people of Korean Peninsula. Therefore, it is quite natural that we give it back to the people of Korea.
当時のプロジェクトにおいて、一部の日本人から「有賀敏彦は教え過ぎだ」という非難を浴びたことはすでに述べました。私はこのことを悲しみます。韓国ポスコに対して有賀敏彦が製鉄技術を真摯に教えたことは当然です。私は生前の敏彦から以下のように聞いていました。即ち、古代のわが国は朝鮮半島から製鉄技術を教えてもらったと。そしてそれをお返しすることは当然だと。

Continued to the next blog. 次のブログにつづきます。

   </content>
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<entry>
   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -8 　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(8)。</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2012/01/rok_government_gave_t_ariga_my_7.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2012:/blog//1.1253</id>
   
   <published>2012-01-25T08:03:06Z</published>
   <updated>2012-01-25T08:06:17Z</updated>
   
   <summary>Continued from the previous blog. 前ブログ(7...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      Continued from the previous blog. 前ブログ(7)からつづきます。

When he had successfully completed the Japanese Project of assisting Korean POSCO-I, T. Ariga got free from the responsibility of the leader thereof together with all the Japanese ca. 40 members.　
      After returning to Japan, he was often privately invited by POSCO friends. He was highly welcomed every time when he visited South Korea.
有賀俊彦は、ポスコ一期工事が完成した時点で役目を成功裏に終えてプロジェクトリーダーの任を解かれました。同行していた約40名の日本側の技術者も同様でした。その後、ポスコに招待されて韓国をたびたび訪問し、その度に大歓迎されていたと聞きました。

However, when No-Muhyon became South Korean President, the friendly atmosphere was completely changed. Many Koreans claimed that POSCO had been completed only by Koreans --- no Japanese had been involved. Therefore, T. Ariga was isolated form the friends of POSCO. He was very sad when he died at the age of 89 in 2007. I am also very sad with the fact that he died before he knew he was given the East Tower Industry Prize of ROK.
しかし盧泰愚大統領の時期に風向きが一変しました。ポスコは、韓国人だかの手で完成したということになり、日本から技術導入したという話は封印されました。ですから、親しかったポスコ幹部との交流は途絶えました。有賀敏彦はそのことを悲しみながら寂しく死の床につきました。2007年9月1日、享年89歳でした。今回の朴明博による東塔産業勲章の受章まで生きていなかったことを、私は残念に思い、悲しんでいます。

Continued to the next blog. 次のブログにつづきます。

   </content>
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   <title>ＪＲ西日本前社長 無罪確定へ　福知山線尼崎駅脱線事故(1)</title>
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   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2012:/blog//1.1252</id>
   
   <published>2012-01-25T02:46:23Z</published>
   <updated>2012-01-25T02:50:14Z</updated>
   
   <summary>本日（2012年1月25日）の日本経済新聞と産経新聞が報じました。...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="02-9　ＪＲ西日本福知山線尼崎駅脱線事故" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      本日（2012年1月25日）の日本経済新聞と産経新聞が報じました。
      即ち「業務上過失致死罪を問われた山崎正夫前社長の神戸地裁の無罪判決に検察が控訴を断念した」と。これに対して産経は、「遺族が神戸地裁を訪れ、控訴するよう申し入れたばかり」として、遺族lは‘裏切り’と落胆している」と報じています。

これに関して私の意見を開示します。刑法の無罪判決に対して検察に控訴をもとめることは、意図している目的に対しては適切ではないと思います。

次のブログに続く

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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -7 　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(6)。</title>
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   <published>2012-01-24T03:25:39Z</published>
   <updated>2012-01-24T03:28:48Z</updated>
   
   <summary></summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      Continued from the previous blog.　前ブログ(6)からつづきます。

Confronting the suspicion that Mr. T. Ariga might be a Korean, T. Ariga presented a book. The book disclosed the fact that T. Ariga was the fourth son of M. Ariga.  Incidentally, the name of the book was ‘The memory of M. Ariga and what he did in Korea Peninsula’. The Japanese co-workers got satisfied reading this book. 
「朝鮮人ではないか」との批判に対して有賀敏彦は、父親有賀光豊との関係が記載されている本を開示して日本人であることを証明したそうです。その本とは‘有賀さんの事跡と思い出’です。光豊が日本の朝鮮時半島統治代に朝鮮人の身になって朝鮮半島の発展に尽くしたことを説明した本です。

There was another surprising effect. Korean co-workers also came to know the relationship between the two persons. The Koreans remembered Mitsutoyo Ariga very well as President Park Chung-hee did. Having known the fact, the Koreans got the more friendly feelings toward T. Ariga than before. And the enhanced good feelings accelerated the project the more and bring a good success of POSCO. T. Ariga thanked M. Ariga, his father, very much.
この本によって日本側が納得したと同時に、韓国側に有賀敏彦が有賀光豊の四男であることが知れ渡りました。彼らは朴正熙大統領がそうであったと同様、光豊のことをよく憶えていたのです。このことによって韓国側の敏彦に対する親密感がさらに高まり、そのことがポスコの大成功に結びついたそうです。朝鮮半島と朝鮮人を愛した有賀光豊の遺徳でした。

Continuing to the next blog.次のブログにつづきます。

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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -6 　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(6)。</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2012/01/rok_government_gave_t_ariga_my_5.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2012:/blog//1.1250</id>
   
   <published>2012-01-23T01:07:14Z</published>
   <updated>2012-01-23T01:22:06Z</updated>
   
   <summary>前ブログ(5)からつづきます。Continued from the previo...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      前ブログ(5)からつづきます。Continued from the previous blog.

T. Ariga is said to have sincerely taught Koreans iron- &amp; steel-manufacturing technology. 
      He was so sincere that some of his Japanese collaborators were said to claim, saying, “Mr T. Ariga must be a Korean.”  
有賀俊彦は精神誠意、製鉄技術を韓国側に教えたそうです。ところがあまりにも‘親切’に教えるので日本側の一部の人から批判が出たそうです。曰く、「有賀敏彦は韓国人ではないか？」と。

次のブログにつづきます。Continued to the next blog.

   </content>
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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -5  　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(5)。</title>
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   <published>2012-01-22T06:31:13Z</published>
   <updated>2012-01-22T06:36:41Z</updated>
   
   <summary>前ブログ(4)からつづきます。Continued from the previo...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      前ブログ(4)からつづきます。Continued from the previous blog.

According to T. Ariga, the prize winner, Mitsutoyo Ariga repeatedly said, “We Japanese should give Korea Peninsula back to Korean People, after we polished and finished Korean Peninsula to come to be an excellent country”. 
      My mother, the first daughter of M. Ariga, conveyed what M. Ariga always had said to me. That is; “Don’t call Koreans with the word, Yobo”, and added, “Don’t segregate Koreans from Japanese”.

有賀敏彦は言いました。父有賀光豊は、「朝鮮は、我々がお手伝いして立派な国に育て上げ、その上で本来の持ち主に返すべきだ」と考えていたことは、ほぼ間違いのない事と思う」と。私の母田邉美佐子は、有賀光豊の長女です。美佐子も有賀光豊が次のように言っていたと私に繰り返し教えてくれました。「朝鮮人に対してヨボ（日本語でオイ）と言っては行けない。朝鮮人と日本人を差別してはいけない」と。

次のブログにつづきます。Continued to the next blog.

   </content>
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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -4 　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(4 )。</title>
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   <published>2012-01-21T01:29:42Z</published>
   <updated>2012-01-21T01:36:54Z</updated>
   
   <summary>前ブログ(3)からつづきます。Continued from the previo...</summary>
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      前ブログ(3)からつづきます。Continued from the previous blog.

Mitsutoyo Ariga, who was given the Industry Prize of ROK, was the president of Industrial Bank of Korea. He passed the examination of ‘Higher Civil l Service Bar Examination’, and got engaged in the Finance Ministry of Japan. He voluntarily went to Korea and joined in Japanese Government in Korea.


      韓国朴正煕大統領が言われた有賀光豊とは、日本内地朝鮮半島韓併合時代に朝鮮半島に設立された朝鮮殖産銀行の頭取、有賀光豊のことです。1898（明治31）年、高等文官試験行政科にc合格して大蔵省に入省し日朝併合以前の朝鮮に渡り、朝鮮総督府参事官（高等官２等）財務局に勤務していました。

In 1920, M. Ariga retired from the Japanese Government in Korea, and joined in Korea Shokusan Bank, presently of Korea Industry Bank, and soon he became president of the bank. Mr. M. Ariga did not segregate any Korean employees from Japanese. Such being the case, many excellent Koreans entered into the bank, which became a big ‘treasure house’ of excellent Korean. After Korea got independence from Japan, caused by the end of World War II, those excellent Korean were the core personnel for Korea to lead ROK to become a good independent country It is said that, as for the Reconstruction Committee of Korea, 12 members out of 20 were the people who had worked for the Korea Shokusan Bank.

その時新設された鮮殖産銀行に理事として出向し、1920（大正9）年に頭取になって朝鮮半島の発展に尽くしました。銀行内では朝鮮人を日本人と差別することなく人事面でも処遇しました。これを聞いた多くの半島j人（当時の呼称）の京城帝国大学卒業生は、競って殖産銀銀行へ入行しました。朝鮮半島の優秀な人材の宝庫になったのです。戦後の国家再建委員会の20名の委員の内、実に12名が殖産銀行出身者で占められていたそうです。
I
次のブログにつづきます。Continued to the next blog.

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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -3　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(3)。</title>
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   <published>2012-01-20T00:39:54Z</published>
   <updated>2012-01-20T02:00:16Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      T. Ariga was given a prize of ROK when project I of whole POSCO was completed.  President Pak, who was assassinated, directly gave Ariga the prize.
      前ブログ(2)からつづきます。Continued from the previous blog.

 At this occasion, the president told,　”I remember Mr. Mitsutoyo Ariga, your father, very much”. And added, “Thank you very much for your sincere corporation. I remember Mr. Mitsutoyo Ariga, your father, very much”.” I heard this fact directly from T Ariga.

有賀敏彦は、ポスコの一期計画が完成した時点で、（暗殺された）朴正煕大統領から勲章を受領しました。その際、朴正煕大統領から直々に（日本人よりも見事な日本語で）お言葉をたまわったそうです。曰く、「韓国のために尽くしていただき、ありがとうございました。有賀光豊さんのことは、よく存知上げております」と。

次のブログにつづきます。Continued to the next blog.

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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -2　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(2)。</title>
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   <published>2012-01-19T02:09:32Z</published>
   <updated>2012-01-19T02:13:08Z</updated>
   
   <summary>前ブログ(1)からつづきます。Continued from the previo...</summary>
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      前ブログ(1)からつづきます。Continued from the previous blog.

Satoko Tanabe, my wife, conveyed the Sankei news to me. She told me that the news paper reported the fact that late K. Ariga was given Prize of ROK from President Pak. Immediately,  I gave a telephone call to Mrs. Ariga, my aunt-in-law, wife of K. Ariga. Hearing her explanation I knew the Sankei report was really true. Mrs. Ariga told me that she visited Seoul to receive the price. POSC is said to have kindly arranged every thing for the travel.

      これを見つけた家内智子が、知らせてくれました。直ちに叔母、富美子に電話して真偽をたしまめました。従妹の菅恵子さんとともにソウルへ行かれたそうです。そして朴明博大統領から直接勲章を授与されたと聞きました。ポスコが全てをアレンジしてくれたそうです。

次のブログにつづきます。Continued to the next blog.

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   <title>ROK Government gave T. Ariga, my uncle, ‘East Tower Industry Prize’for his contribution to POSCO. -1　韓国政府が有賀敏彦(私の叔父)のポスコ協力に対して東塔産業勲章を授与(1)。</title>
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   <published>2012-01-18T07:46:32Z</published>
   <updated>2012-01-18T07:53:12Z</updated>
   
   <summary>Sankei New Paper reported that President...</summary>
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-5 日韓の架け橋、有賀敏彦と有賀光豊、その子孫田邉康雄が語る。" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      Sankei New Paper reported that President Pak gave late Mr. Toshihiko Ariga a big prize in December of 2011 for his contribution to construction of iron and steel work of POSCO
      . 

昨日(2012年1月16日)の産経新聞の一面、‘から（韓）国便り、貿易一兆ドルとキティちゃん’の記事。黒田勝弘（産経ソウル特派員）氏の執筆です。曰く、「貿易立国でやってきた韓国には’貿易の日’というのがある。毎年、大統領出席の下に記念式が行われ、輸出に貢献した企業や個人に勲章が授与される。昨年は「貿易１兆ドル達成」でことのほか盛大に行われたが、その叙勲の中に日本人が含まれていた。元新日本製鉄の故有賀敏彦さんで、夫人が招かれ代わって勲章を受け取った」と。

次のブログに続く

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   <title>セミナー「ムダを取ってISOの形骸化を防止しよう！～ISOムダ取り決定版～システム自動化と自己宣言」(2)</title>
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   <published>2012-01-15T06:27:42Z</published>
   <updated>2012-01-15T06:31:29Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="01-4　品質ISO/環境ISO/安全OHSAS　支援内容　説明会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="14-1   ＩＳＯ内部監査" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="14-2 ＩＳＯ内部監査代行" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="14-3　ＩＳＯコンサルタント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづきます。Continued from the previous blog..

ISOセミナー分野における最大の企業は、グローバルテクノさんです。ここから受領したダイレクトFAXによると、来る１月27日に特別セミナーを開催されます。「役に立つ品質・環境ＩＳＯ」「ＩＳＯで明日をもっとオモシロク」と謳っておられます。

――　形骸化を辞書で引くと、「中身がなくなって形だけが残っているようになること」とあります。グローバルテクノさんは、長年ＩＳＯ審査員養成研修コースをやっておられます。なのに、「ＩＳＯ形骸化からの脱却」などというのは、どうしたことでしょうか。いままでのコースで‘形骸化脱却’を目指すような審査員を養成してこなかったのでしょうか。単純な疑問をいだきます。

次のブログに続きます。
Continue to the next blog.

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   <title>セミナー「ムダを取ってISOの形骸化を防止しよう！～ISOムダ取り決定版～システム自動化と自己宣言」(1)</title>
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   <published>2012-01-14T08:09:41Z</published>
   <updated>2012-01-14T08:20:46Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="01-4　品質ISO/環境ISO/安全OHSAS　支援内容　説明会" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="14-1   ＩＳＯ内部監査" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
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         <category term="14-3　ＩＳＯコンサルタント" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
         <category term="24　リスクマネジメント　ＩＳＯ31000" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      「ISO形骸化の防止」のための「ISOムダ取り」ブログの連載を開始します。From this time on, I now begin writing a blog of ‘Rationalization of ISOMS operation through KAIZEN’.

　来る3月8日に表記タイトル「ISOムダ取り決定版　システム自動化と自己宣言」の下でセミナーを開催します。趣旨は、頭につけたタイトルのように、「ムダを取ってISO形骸化を防止」することにあります。このセミナーは、弊社が、新技術開発センターさん、並びにゼッタテクノロジーさんの両社と協力して行うビッグセミナーです。これは単なるセミナーに終わらず、弊社とゼッタテクノロジーの２社の力を結集し、それを新技術開発センターが取りまとめて行う、新しいコンサルティングサービスの説明会という意味合いもあります。


当セミナーに御関心のある方は、弊社へお問い合わせください。

このタイトルの次ブログへつづきます。Continue to the next blog.

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter)翁の著書：幕末外交談から(5-5)</title>
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   <published>2012-01-08T23:02:20Z</published>
   <updated>2012-01-08T23:09:13Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。Continued from the previous blog.

伊藤博文はイギリスに密航した際、ジャーディン・マセソン商会のマセソンの知遇を得ました。このときの縁を頼って伊藤は「工学教育を日本で実行する方法を教えてくれ」と依頼しました。。
Hirobumi Ito came to be acquainted with Mr. Matheson of Jardine &amp; Matheson Company, an international trading firm. Ito asked Mr. Matheson to teach him how Japanese students master engineering in Japan --- not in U.K.

次ブログへつづく。Continue to the next blog.

   </content>
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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter)翁の著書：幕末外交談から(5-4)</title>
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   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2012:/blog//1.1241</id>
   
   <published>2012-01-08T04:26:13Z</published>
   <updated>2012-01-08T04:29:46Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。Continued from the previous blog.

伊藤博文は幕末の動乱期に幕府が定めた国是、鎖国を破ってイギリスに密航しました。後の世で「長州ファイヴ」と賞賛される長州藩の陰謀でした。
　Hirobumi Ito, samurai, or a warior of Choshu Han --- presently of Yamaguchi Prefecture --- Local Government, together with other 4 samurais, violated Japanese Central law of Edo, presently of Tokyo, prohibiting going abroad without the government’s permission and visited United Kingdom. This happened in 1863.

次ブログへつづく。Continue to the next blog.

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(5-3 )</title>
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   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2011:/blog//1.1240</id>
   
   <published>2011-12-31T02:57:31Z</published>
   <updated>2011-12-31T02:59:56Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。Continued from the former blog.

最初の訪問国で頭を叩かれたたと前ブログで書きました。しかし使節団首脳は賢明でした。変身したのです。不平等条約を改定するには、国力を背景にしなければ話が進まないことを理解しました。そして失意の地、アメリカを去ってイギリスに渡った際に伊藤博文が動きました。

In the previous blog, I wrote, ‘They got disappointed when they began negotiating with the U.S. Government and they failed.’ They understood that the treaty could not be revised until the strength of Japan was enhanced. They were all got disappointed and left America. However, the members of the delegation were cleaver enough to change them. Their next destination was Europe where Hirobumi Ito started taking action. 

次ブログへつづく。Continue to the next blog.

   </content>
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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter)　翁の著書：幕末外交談から(5-2)</title>
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   <published>2011-12-30T04:36:18Z</published>
   <updated>2011-12-30T04:38:55Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。Continued from the former blog.

最初の訪問国で頭を叩かれたたと前ブログで書きました。書記官長をしていた田邉（辺）太一は、これを見てさぞや溜飲が下がったでしょう。仮に大久保や伊藤が幕府時代の外交担当者だったとしたら、もっと日本に不利な条約を締結していただろうと思っていたからです。幕府外交官だった太一は、制約条件が多い中にあって大きな成果を挙げたという自負があったからです。

In the former blog, I wrote, ‘The leaders of Iwakura delegation were hit at their head, when they visited U.S.A, the first visiting country’. I imagine that Taichi Tanabe was satisfied to see them. He must have thought, “If Okujbo and Ito were at the helm of foreign affairs of Tokugawa Government, they would have concluded worse treaty than actually done.” Taichi had a big self-confidence that he had done very well as one of the officers of foreign affairs of Tokugawa government. 

次ブログへつづく。Continue to the next blog.

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき(twitter)翁の著書：幕末外交談から(5-1)</title>
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   <published>2011-12-29T07:44:37Z</published>
   <updated>2011-12-29T07:47:38Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      私田邉康雄は、NＰＯ法人米欧亜回覧の会の会員です。この会は、明治初期の「岩倉遣米欧使節団」の事跡に興味を持つ人々の私的なあつまりです。
I, Yasuo Tanabe, belong to a Non Profitable Organization called “Study Team of Turn-around trip to U.S.A and Europe”.

1871（明治4）年に岩倉具視を団長とした遣米欧使節団が日本を出発しました。この使節が岩倉遣米欧使節です。その目的は、徳川幕府時代に米欧列強諸国と締結した不平等条約の改定でした。この大きな目的は、最初の訪問国アメリカにおいて挫折しました。
In 1871, a negotiation team departed to U.S.A and to Europe in order to positively correct trade treaties therewith, which were considered to be partial to Japan. However, their big ambition was broken at the first visiting country of U.S.A.

使節団の副使、大久保利通や伊藤博文などは、「弱腰の徳川幕府外交に代わって自分たち薩長の強力メンバーが改定を勝ち取って来よう」と意気込んで出発しました。しかし最初の訪問国で頭を叩かれたのです。
Toshimichi Okubo and Hirobumi Ito, both deputy leader of the team, were optimistic to the coming negotiation. They thought, “The negotiators of foreign ministry of Tokugawa Government were very weak. This is the reason that we were forced to conclude partial treaties. Now, this is our turn, we are strong and hard negotiators. We are deferent”. And the ambition was broken. This was what happened accutually.

次のブログに続きます。
Continue to the next blog.

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談（史）から(4-11)</title>
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   <published>2011-12-24T06:14:07Z</published>
   <updated>2011-12-24T06:16:10Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
個人的満足

田邉太一はつぶやく。
＜昌平坂学問所で教えてもらった倫理観＞
私は“責に任じて”自分のことよりも、国家のことを考えて行動した。これは私の倫理観だった。この倫理観は、昌平坂学問所において儒学者の父、田邉石庵から教えてもらったものだ。責任を果たすとは倫理観に立って自分の仕事をすることだ。幕府時代の上層部に上層部としての責任を果たす気概のある人物が少なかったことは残念だ。だから薩長にやられたのだ。

田邉太一はつぶやく。
＜長州に対する個人的エール＞
薩摩は嫌いだが、長州は嫌いではない。長州軍の鳥取藩第8番隊長だった北垣国道(後の内務次官、枢密顧問官)が実の娘を甥田邉朔郎にもらってくれといった際に反対しなかった。長州藩騎兵隊の隊員、片山東熊(後の国宝迎賓館設計者)が朔郎の姉をもらってくれと言った際も反対しなかった。長州の人は単純でわかりやすい。決して策略を弄するようなことはなかったから。

田邉太一は更につぶやく。
＜長州へのエール、つづく＞
甥の朔郎は、長州伊藤博文の作った枠組みの中で生きさせてもらった。岩倉遣米欧の副使の一人、伊藤の働きによって産業革命の重工業発祥の地、スコットランドから数多くの教師を招聘して工部大学校（東大工学部前身）を設立し、学長に幕府時代の私の仲間、大鳥圭介を嵌めてくれた。大鳥は琵琶湖疏水推進者で長州閥の北垣国道に朔郎を推薦してくれた。長州はよい。

田邉太一は更につぶやく。
&lt;学者田邉家の中継ぎを果たしたことへの満足＞
薩長の世になったにもかかわらず、没落した幕府旗本田邉家を再興させたことが満足だ。父親代わりになって育てた田邉朔郎が土木で大成功した。朔郎の姉を嫁にだした片山東熊も建築で、私の娘三宅花圃も小説で、その夫、三宅雪嶺も評論で大成功した。老後は、娘花圃のところで好きな漢文の釈読をして静かに暮らそう。外務省退官後の吉原通いを忘れて。

次のブログにつづく。

   </content>
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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談（史）から(4-10)</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/410.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2011:/blog//1.1235</id>
   
   <published>2011-12-23T00:36:06Z</published>
   <updated>2011-12-23T00:38:12Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

田邉太一はつぶやく。
＜薩長の廃仏毀釈を怒る＞
天皇の利用が昂じて、神道を尊ぶがあまり、仏教を弾圧した。神道を尊ぶことはよい。しかし仏教を廃する必要はない。特に薩摩がひどい。徹底的に寺を破壊した。伊勢神宮のお膝元、三重県もひどかった。古来の土着宗教を仏教で補強して国の形ができていたのだ。それを壊した。寺家、公家、武家の内、寺家を抹殺した。廃仏毀釈である。その社会安定に対する罪は大きい。

田邉太一はつぶやく。
＜薩摩を許せなかった自分の限界＞
従来の姿勢と相反して徹底抗戦を主張した自分を許せなかった。人前に出ることが恥ずかしかった。どの面下げて国家のために働くことができるかという思いだった。それに加えて、薩摩が大嫌いだった。この二つによって、請われて明治政府に外務省へ出仕した後も、「吾不閑焉（吾関せずえん）」と傍観者的態度をとらざるを得なかった。それが自分の限界であった。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
江戸城無血開場に反対した理由。

田邉太一はつぶやく。
＜なぜ徹底抗戦を主張したか？＞
幕府時代には、職を解かれることを覚悟して、(国を思って)上司に開国を直言した。実際そうやって職をとかれた。こんなに積極的に動いた私が明治になってから「吾不閑焉の態度をとったことをいぶかしく思う人があるだろう。自分でもよく分からないところがある。榎本、大鳥、荒井が誠心誠意薩長政府に協力したのに対して対照的だった。しかしそれしか出来なかった。

田邉太一は更につぶやく。
＜無血開城してよかった＞
私は心ならずも小栗忠順の路線に沿って、榎本、大鳥、荒井とともに“徹底抗戦”を主張した。徹底抗戦すれば、日本を二分した内戦になる。フランスが支援する東日本対イギリスが支援する西日本だ。戦いが終了した時点で日本民衆は疲弊し、東はフランス植民地、そして西はイギリス植民地、北海道はロシア領、そして後年朝鮮半島もロシア領となった筈だ。



次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談（史）から(4-9)</title>
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   <published>2011-12-21T00:33:03Z</published>
   <updated>2011-12-21T00:35:48Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      前ブログからつづく。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
長州は許すが薩摩は許せない太一。

田邉太一はつぶやく。
＜薩摩にはひどい目に会った＞
薩長が投げかける無理難題を躱(かわ)すため、私はフランスへ無為の出張をさせられた。外国事情をつぶさに見させてもらったことは有難かったが、外国に拒否されることが明らかに分っている申し入れをわざわざ外国にまでいかされたことはつらかった。徳川昭武に随行した二度目のフランス出張は、薩摩の謀略にあって散々な目にあった。私の薩摩嫌いはここに始まる。

田邉太一はつぶやく。
＜薩摩に対する怒り＞
薩長に対して徹底抗戦すれば、日本が列強の植民地になる。そんなことが分っているのに、なぜそれを主張したのか。それを明かそう。従來“開国”を主張してきた。もちろん“尊皇開国”である。しかるにいつの間にか“蔑皇開国”にすり替えられてしまった。すり替えたのは、薩長である。とくに薩摩だ。それで怒った。怒った結果が薩長に対する徹底抗戦だった。

田邉太一はつぶやく。
＜晩年の態度の理由＞
薩長のやり方、とくに薩摩のやり方に対して憤慨していた私にとって、徹底抗戦は“時の勢い”だった。感情的なものだった。しかし感情的になったことを明治になって深く反省した。だから薩長政府に出仕した後でも、吾不閑焉（吾関せずえん）の態度をとった。退官後、福地源一郎と共に吉原遊びにふけり、身代を潰した。自ら恥じるところもあったからである。

田邉太一はつぶやく。
＜薩摩への怒りがつづく＞
大久保等薩摩のやり方は卑劣である。天皇を欺瞞して東京へ遷都した。最初はちょっと行幸するということだったが、行幸から未だに京都へお帰りにならない。現に京都の人は天皇が御戻りになることを心待ちにしている。薩摩の大久保が京都市民を欺瞞した。桓武天皇以来、1100年も天皇の御座所であった“みやつところ”（都）を江戸に移し申しあげて東の京とした。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-8)</title>
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   <published>2011-12-20T08:41:18Z</published>
   <updated>2011-12-20T08:43:19Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
＜トップが御殿様ではだめだ＞
幕府上層部は、石高5～6万石以上の親藩の藩主が多かった。これを補佐する幕臣の中にも地球の上の日本であることを認識できる士がいなかった。これは幕臣だけではなかった。各藩の藩士も同様だった。260年間も鎖国によって外国の事情が分からなかった。長州の吉田松陰でさえ外国事情を知りたくてペリー艦隊に乗り込んで密航しようとしたではないか。拙劣である。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-7)</title>
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   <published>2011-12-18T23:36:10Z</published>
   <updated>2011-12-18T23:41:19Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に々々嘆いてつぶやく。
＜大東亜戦争への突入＞
台湾、朝鮮半島、満州の権益、樺太半分、千島列島までがわが国の領土だった。これに第一次大戦で得た太平洋の信託統治権を加えると、地球面積の約10分の1が日本のものだった。モンゴル帝国にも勝る大きさだった。これを薩長軍は、幕府時代の姿にもどしてしまった。日清日露戦争の成果は無に帰した。「滅びる」といった“三四郎”に出る広田先生の予言通りだ。

田邉太一はつぶやく。
＜下級武士はハングリーだった＞
幕末期において下層武士の教育レベルが上層レベルの教育レベルを上回っていた。これは、幕府に限らない。諸藩においても同様だった。現に武力革命を成し遂げた薩長においても同様なことが言える。家格の低い家に生まれた武士たち、特に長男以外は苦しい生活の中でハングリーになっていた為であろう。幕臣旗本次男の私も御他聞に洩れず、ハングリーだった。

田邉太一はつぶやく。
＜世の常＞
上級階層の中の下部に位置する人がいつも世の中を覆す。教育程度が高くてハングリーだからだ。上部に位置する人は、満ち足りて努力する必要ない。典型的には戦国時代の下克上であり、藤原貴族（公家）に対する、平氏/源氏（武家。室町時代の応仁の乱も。明治武力革命も同様である。幕府も各藩も上層部がだめだったが、下層部ががんばった。世の常である。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
階層社会の上下シャッフルの常

田邉太一は更につぶやく。
＜人材がいなかった＞
幕府上層部にも、小笠原、阿部(正外)、松前などの有為の人材がいたのだ。繰り返して惜しむ。阿部正弘が開国と決めてペリーを迎えていたらよかったのだ。阿部正弘が朝廷に対して「どういたしましょうか」と伺いを立てたことが幕府凋落のスタートだった。従來のルールを破ることの意味を認識していなかった。家康以來外様大名に意見を聞くことはなかったのだ。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-6)</title>
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   <published>2011-12-18T06:50:29Z</published>
   <updated>2011-12-18T06:52:36Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
＜歴史は繰離返す＞
“関が原”や“大阪冬夏”では、内戦をしている余裕があった。当時の外国ポルトガルとスペインは、日本を武力攻略する力がなかった。と、言うよりも。日本の武力が勝っていたのだ。当時、全世界の鉄砲の1/3がわが国に存在していた。日本刀製造で培った製鉄技術がそれを支えたのだ。遠路はるばる帆船で航海してきて攻撃できるような国ではなかった。内戦できた。


―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
明治武力革命は、ヒエラルキー社会のシャッフル（階層社会の上下入れ替え）

田邉太一はつぶやく。
＜家格の低い幕臣の高い教育レベル＞
幕府旗本の上層部の武士は、私のように長崎海軍伝習所に入所して外国事情に接することはなかった。だからやれもしない鎖国攘夷を暢(のん)気に唱えた。しかし実務をこなす幕府外国奉行所はよくやった。繰り返すが、北海道を守った。対馬も沖縄も守った。小笠原もまもった。本土が外国の植民地になることを防いだ。これは下部組織がしっかりしていたお蔭だ。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
大日本帝国陸海軍は、薩長革命軍のＤＮＡを継承。

阿弥陀仏の下で田邉太一はつぶやく。
＜日露戦争の勝利は当然＞
繰り返す。薩長政府は軍事政権だった。戦争のプロだ。故に西南戦争、日清戦争、日露戦争に勝利できた。戦争は常に訓練している側が強い。最善の訓練は実戦だ。この意味で日露戦争までの勝利は必然性がある。しかしその後の対処が悪かった。アメリカに愛想をつかされ、親日英国までも敵にした。戦争のプロなら勝って兜の緒をしめよ。調子にのってはだめだ。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に嘆いてつぶやく。
＜大東亜戦争への突入＞
薩長は自分たちの軍隊を天皇直属に据えた。その結果、後の515事件や、226事件を誘発し、挙句の果てに大東亜戦争に突入した。日清日露戦争の勝利は、薩長軍の勝利であったことを認めるが、その勝利が無に帰した。樺太、千島列島、朝鮮半島、台湾を失い、満州にあった南満州鉄道の利権をうしなった。日清日露戦争の勝利が完全に帳消し。徳川時代に戻ってしまった。

次のブログにつづく。

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   <title>★リスクマネジメント国際規格ISO31000の活用方法　【3月24日13：00～17：00、東京メトロ神保町駅３分於日本教育会館大会議室、リスクマネジメント協会年次大会講演、講師は弊社代表田邉康</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/iso31000324.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2011:/blog//1.1229</id>
   
   <published>2011-12-16T06:17:42Z</published>
   <updated>2011-12-28T02:12:59Z</updated>
   
   <summary>来る2012年3月24日(土)にリスクマネジメント協会の2012年次が開催されま...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="25 技術者向けセミナー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      来る2012年3月24日(土)にリスクマネジメント協会の2012年次が開催されます。この席上で田邉康雄が講演をします。
      そのタイトルは「リスクマネジメント国際規格ISO31000の活用方法」であり、副タイトルは「リスクマネジメント国際規格ISO31000が2010年9月に日本規格として公布された。その半年後に福島原発の水素爆発事故が発生し、リスクマネジメントに対する期待が高まった。この機をとらえ、この国際規格の利用法を考える」です。

リスクマネジメント協会の年次大会ですから、参加資格はリスクマネジメント協会の会員です。一般参加も認められますが、参加費一人当たり5000円が必要です。
しかし講演者の紹介があれば無料で参加できます。参加を御希望の方は、私田邉康雄まで御連絡ください。

とくに定年退職後にも年金支給を受けながらリスクマネジメントを支柱のひとつにして社会貢献をしたいと希望される方は歓迎します。電話または電子メールで田邉康雄まで御連絡ください。


電話　03-3776-2495　
電子メール　tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp


   </content>
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<entry>
   <title>★生涯現役エンジニアになろう！！（１０回目）【3月10日(土）13：00～17：00、東京メトロ半蔵門駅徒歩２分於新技術開発センター研修室</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/_31013001700.html" />
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   <published>2011-12-16T06:14:30Z</published>
   <updated>2011-12-18T05:29:31Z</updated>
   
   <summary>来る2012年3月10日(土）13：00～17：00、新技術開発センター主催によ...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="25 技術者向けセミナー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      来る2012年3月10日(土）13：00～17：00、新技術開発センター主催により、第１０回「生涯現役エンジニアになろう！！」セミナーを開催します。私田邉康雄が講師を引き受けます。受講料：25,000円(税込)。


      ――　このセミナーは、弊社の技術者研修「生涯現役エンジニアの道」の一環です。エンジニアに対する支援の一つとお考えください。
　
このセミナーの第一回(2009年3月)を受講した人の中から有志が出現。そして「引き続いて指導してほしい」と請われました。これを快諾した結果、有志が代表幹事となって「生涯現役エンジニア塾」が誕生しました。現在約40名の塾生がいます。過去9回の塾を開催し、来る2012年1月28日（土）に第10回目が開催されます。

人生尽きるまで技術者として活躍し、もと在籍していた企業の後輩から「先生」と尊敬されて人生をまっとうする道などを教えます。

内容を確認されたい方は、講師田邉康雄へ直接お問い合わせください。
メール：tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp
電話：03-3776-2495
FAX：03-5742-7695


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   <title>★ＩＳＯムダ取りの決定版　システム自動化と自己宣言【3月8日10：00～17：00、於東京メトロ半蔵門駅徒歩２分新技術開発センター研修室、講師は弊社代表田邉康雄</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/post_76.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2011:/blog//1.1227</id>
   
   <published>2011-12-16T06:10:59Z</published>
   <updated>2012-01-06T08:45:19Z</updated>
   
   <summary>このセミナーに御興味のある方は田邉康雄へ御連絡ください。...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="25 技術者向けセミナー" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      このセミナーに御興味のある方は田邉康雄へ御連絡ください。
      電話：　０３－３７７６－２４９５
電子メール：　tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

以下、新技術開発センターのパンフに記載される案内文をそのまま掲載します。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
マネジメントシステムのISOがわが国に導入されてからすでに20年余が経過し、事務局３代目時代を迎えました。今、経営者は事務局に対して“新機軸”の打ち出しをもとめています。なぜなら、現下の不況下において企業のＩＳＯ社内コスト負担が大きいからです。経営者から御下問をうけた事務局の方は悩んでおられます。

しかし、このセミナーを受講すると新しい方向が見えてきます。究極の姿は、“専任事務局不要”の運営により社内コストを大幅に削減する道です。そのためには、システムの自動化が不可欠です。その際、自社の情報処理技術を活用してシステム自動化を自力で行う道はありますが、コンピューターの知識がいくらあってもダメです。なぜんら、ＩＳＯマネジメントシステムに関する深い理解が必要ですから。

新技術開発センターは、従来から製造業の“ムダ取り”に関する様々なセミナーをやってきました。今回は、製造業の“ＩＳＯムダ取り”に正面から取り組みます。そのために、10年以上も前に自己宣言を提唱し、そのための自動化ソフトを開発したゼッタテクノロジーから講師を迎えます。そしてソフトの実績を紹介してもらいます。このソフトを使用したシステムは、認証審査において不適合が発生することは皆無であるという実績があります。したがって事務局は、認証登録継続に関して何の不安もなく独自の“ムダ取り”に取り組むことができます。

一方、スタートとして“ムダ取り”に取り組んでいただきますが、“ムダ取り”によって自由になった従業員の余力を企業利益を確保するための「コストダウン（利益向上）」と「リスク低減（損失防止）」に振り向けていただきます。これに関しては田邉康雄氏を講師に迎えます。氏は、コンサルティング的内部監査のベテランです。

内部監査の場において瞬時に問題点を発見し、カイゼン提案をします。これは、IRCAがスーパーオーディターと呼称しているものに同じです。また氏の指導を受けて内部監査をすると、IRCA審査員、主任審査員への道が開けます。さらに氏は、大企業のISOマネジメントシステムの自己宣言を指導して成功させた経験があります。さらにＩＳＯＭＳを完全統合して、コンプライアンス、内部統制、コーポレートガバナンスに活用する指導のベテランです。

今回のセミナーは、新技術開発センターの新サービス、「システム自動化によるISOムダ取り支援」、「適合自己宣言によるムダ取り支援」、「ムダ取りによってフリーになった余力によるコストダウン（利益向上）支援」、「同リスク低減（損失防止）支援」、「同コンプライアンス支援」、「同内部統制支援」、「同コーポレートガバナンス支援」を紹介する意味があります。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―

以上、新技術開発センターのパンフに記載される予定の内容を先取りして書きました。

   </content>
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   <title>★生涯現役エンジニア塾（第１０回目）開催【1月28日14：00～16：30、於ＪＲ大森駅徒歩２分Ｌｕｚ大森５階「ＫＴＰスター貸会議室」】、塾長は弊社代表田邉康雄</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/128_1.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2011:/blog//1.1226</id>
   
   <published>2011-12-16T06:07:34Z</published>
   <updated>2012-02-01T23:11:32Z</updated>
   
   <summary>新技術開発センターによる「生涯現役エンジニアになろう！！」セミナーの受講生は、希...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="26 技術者向けセミナー（開催終了）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      新技術開発センターによる「生涯現役エンジニアになろう！！」セミナーの受講生は、希望すればアフターサービスを受けるための塾に入ることができます。塾代は、会場設営費を参加者全員で「割り勘」負担する以外は無料です。


      今回は、十回目を記念して新技術開発センターが「後押し」をしてくれました。塾の内容は以下の通りです。

１）	各自の進捗状況報告
２）	塾長田邉康雄の講話
３）	新技術開発センター細井社長の講話
４）	懇親会（新技術開発センター負担）

参加資格は、新技術開発センターの「生涯現役エンジニアになろう！！」セミナーの受講経験者に限定されていますが、今回はオブザーバーをお迎えしたいと思います。

すなわち、技術者であり、将来、生涯現役で社会貢献したいと考えており、その方策を模索しておられる方を歓迎したいと思います。

御希望の方は私田邉康雄に御連絡ください。

電話：　０３－３７７６－２４９５
電子メール：　tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

   </content>
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<entry>
   <title>★国際規格ISO31000リスクマネジメント研究会（第２回目）【1月21日、於ＪＲ田町駅２分「女性就業支援センター」】、研究会長は弊社代表田邉康雄、後援：リスクマネジメント協会</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/iso31000121_1.html" />
   <id>tag:www.tanabe-consul.jp,2011:/blog//1.1225</id>
   
   <published>2011-12-16T06:02:07Z</published>
   <updated>2012-02-01T23:04:27Z</updated>
   
   <summary>さる9月に大会（参加者：50名）を開き、その中の希望者15名が「リスクマネジメン...</summary>
   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="26 技術者向けセミナー（開催終了）" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      さる9月に大会（参加者：50名）を開き、その中の希望者15名が「リスクマネジメント研究会」を発足させました。会長は私田邉康雄、主催はベック株式会社、そして後援はリスクマネジメント協会です。


      ――　今回は発足後の第一回目の研究会を開催します。開催日は2012年1月21日（土）、開催時間は1400～1630です。そして場所は「女性就業支援センター（JR田町徒歩１分）」です。

――　会員の資格制限はありません。リスクマネジメントに関心があり、かつ、勉強したいと考えておられる方は歓迎します。とくに定年退職後にも年金支給を受けながらリスクマネジメントを支柱のひとつにして社会貢献をしたいと希望される方は歓迎します。電話または電子メールで田邉康雄まで御連絡ください。

03-3776-2495　
tanabe-yasuo@tanabe-consul.jp

   </content>
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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-5)</title>
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   <published>2011-12-15T23:31:36Z</published>
   <updated>2011-12-15T23:33:52Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
   </author>
         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

田邉太一は更につぶやく。
＜明治の政治家の本質＞
生野の挙兵で思いだした。甥田邉朔郎の岳父、北垣国道は若い頃、郷士“北垣普太郎”と言った。大和(天誅組)の挙兵に呼応して幕府「生野の銀山」を襲撃した。近隣の農民を組織し、福岡藩士平野国臣と組んで長州に落ち延びていた七卿落ちのひとり、沢宣嘉を長州まで迎えに行って生野で擁立し、襲撃したものだ。後の内務次官であるが、これが長州の政治家だ。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
薩長の天皇私物化への非難

田邉太一はつぶやく。
＜薩長による天皇の私的利用＞
徳川慶喜が尊皇精神を発揮して国家のために大政奉還した。しかし薩長は自分たちのために尊皇と称して天皇を私物化した。平安時代の藤原氏による天皇私物化にも似ている。天智天皇を助けて大化の改新と称する武力クーデターによって政権をとった藤原氏が、天皇家と深い関わりを形成して、平安時代に天皇家を私物化した。これと明治の薩長政府はよく似ているのだ。

田邉太一は更につぶやく。
＜薩長による天皇の私的利用（２）＞
生野の挙兵→蛤御門の戦い→長州戦争（一次～二次）→伏見鳥羽街道の戦い→東北戦争→函館戦争と続く一連の戦争は、東軍対西軍の戦争であり、戦国時代の再現だった。関が原の戦いにおいては、総大将毛利を頂く西軍が負けたが、この西軍が270年振りに勝利した。勝利の結果、天皇を東京へ拉致し奉って私物化し、自分たちの中央集権国家に利用した。

田邉太一は更につぶやく。
＜薩長の天皇制の利用を怒る＞
鎌倉時代から続く政治に直接関与しない天皇制は、日本独特の優れた政権交代システムだ。薩長はこれを破壊してしまった。薩長は自分達の権威を守るために天皇を江戸に拉致申し上げたのだ。しかも拉致とは言わず、自らの御意思で東京へおいでになったというシナリオを捏造した。自分達を尊皇開国だったと称し、幕府を蔑皇鎖国であったと言ってすり替えた。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-4)</title>
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   <published>2011-12-14T23:03:59Z</published>
   <updated>2011-12-14T23:06:21Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆いてつぶやく。
＜バルチック艦隊撃滅の勝因＞
海軍の大艦巨砲主義は、薩摩の東郷平八郎の老害によるところ大。東郷の初陣は薩英戦争だった。日清日露の海戦を経験して自信過剰だった。日露戦争の勝利は作戦の勝利ではなくて、工学の勝利であることをすっかり忘れていた。Ｂ＆Ｓ社を訪問して「日本海海戦の勝利はあなたたちが製造した距離測定器のおかげ」と演説したではないか。Ｔ字戦法で勝ったのではない。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から更につぶやく。
＜大艦巨砲主義＞
大東亜戦争の緒戦において日本は、航行中の英国戦艦プリンスオブウエールズと重巡レパルスを航空機によって撃沈した。これは画期的成果だった。一方、戦艦大和と同武蔵は、航空機による攻撃を受けて戦わずして撃沈された。敵をとられたのだ。大艦巨砲主義を捨てて空母建造作戦に変更していたら、大東亜戦争は別の形になっていた。いや開戦しなかったかも知れない。

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を更に々々嘆いてつぶやく。
＜陸軍の精神主義＞
長州の伝統を引き継ぐ陸軍もひどい。オーエスタンレー山脈越えポートトモレスビー攻略、ニューギニア戦線はひどい。その後の補給なしの銃剣突撃によるインパール攻略作戦、これら無謀な作戦は、長州の伝統だ。後先を考えずに倒幕戦争の戦端を開いた長州の伝統そのものだった。1864（元治1）年に攘夷の勅状を真に受けて下関で外国船に砲撃開始した長州そのものだ。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
明治維新なる名称を使った薩長の詭弁を突く。

田邉太一はつぶやく。
＜薩長の倒幕戦争＞
松平直克が政治総裁になった時期は、幕末の動乱期だった。1863(文久3)年8月18日の政変→七卿落ち→生野の挙兵→蛤御門の変→第一次長州征伐→第二次長州征伐→伏見鳥羽街道の戦い→東北戦争→函館戦争と繋がる明治武力革命の発端時期に当たっていたのに本人はそれに気がつかず、それを防止できなかった。幕府上層部は何をしていたのか。無能の一言に尽きる。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書幕末外交談から(4-3)</title>
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   <published>2011-12-14T00:18:15Z</published>
   <updated>2011-12-14T00:20:19Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
600年振りに成った源頼朝子孫、薩長の復権

田邉太一はつぶやく。
＜源頼朝の怨念を薩長が晴らした＞

明治の薩長政府は、北条によって鎌倉を乗取られた源頼朝の側近島津と毛利が750年振りに復権したと見れば面白い。頼朝の庶子、島津忠久は北條政子の嫉妬を受けて、僻地薩摩へ左遷された。腹心大江広元の子、毛利季光も僻地長州へ。頼朝の墓に、頼朝に寄り添うように忠久、季光の墓が並んでいるのは実に興味深い。もちろん後の世に島津毛利が建てたものだが。

田邉太一はつぶやく。
＜薩長は新貴族を創って自分が貴族になった＞
薩長武力革命政府は、歴史的貴族を廃して新たな貴族をつくり、自分が貴族になった。欧州のプリンス、デューク、カウント、バイカウント、バローンを古代支那大陸の封建時代、周王に封じられた公爵、候爵、伯爵、子爵、男爵を当てはめた。自分達が入り込める形にしたと言わざるを得ない。伊藤博文は公爵、大久保利通も侯爵だ。下級武士から貴族トップだ。

阿弥陀仏の下で田邉太一はつぶやく。
＜薩長は自分たちの軍隊のリーダーを貴族にした＞
薩長武力革命政府は、自分達が貴族になるだけではなく、自分たちの軍隊のリーダーを貴族にした。例示すると日清日露戦争で功績を上げた薩摩出身の陸軍大将大迫尚敏・尚道兄弟を子爵・男爵に列した。軍人は戦争をすれば出世するという枠組みをつくり、戦争が必要とされた。これが大東亜戦争に突入した真の理由だ。後の世に提唱されたシュンペーターの理論通りだ。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
頼朝軍事政権の末路

田邉太一は阿弥陀如来様の御許から昭和を嘆いてつぶやく。
＜大日本帝国陸海軍＞
徳川幕府が江戸に開いた軍事政権を薩長が倒して自分たちの軍事政権を樹立した。大日本帝国陸海軍は、薩長軍事政権の拠り所だった。この軍事政権が大東亜戦争をまねいた。この敗戦によって薩長軍事政権が明治武力革命以来70有余年でやっと崩壊し、民政がやっと実現した。その代償は大きく、幕府が守った北方領土/竹島を実効支配され、沖縄/小笠原すら一時失った。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-2)</title>
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   <published>2011-12-13T00:01:52Z</published>
   <updated>2011-12-13T00:04:15Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      前ブログからつづく。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
幕末外交談を書き終わった際の気持ち。

田邉太一はつぶやく。
＜幕末全体を回顧して繰り返し繰り返し慨嘆する＞

徳川幕府がやってきたことを素直に見ると、尊皇攘夷をめざして果たせずに、最初から最後まで無駄に時間を費やした歴史にすぎない。私は断固として言う。主張して曰く「徳川幕府には外交政策がなかった。外交なんてものはなかった。単に朝廷の御意向をその場しのぎで尊重し奉って攘夷を約束し、結果としてその約束が達成できなかった不毛の軌跡だった」と。
次のブログにつづく。

田邉太一はつぶやく。
&lt;ストレス解消＞
「幕府に外交のことなし。ただ朝意を奉じ、鎖国攘夷を図って遂げざる跡のみ」。これを言って長年もやもやしていたものが、一気に吹き飛んだ。もう何時でも、阿弥陀如来様の御下に参上してもよい。阿弥陀さまも「よくやってきた」と頭を撫でてくださるだろう。42歳で惜しまれて死んだ兄孫次郎に代わって次男の私が田辺家を再興したことを父石庵にほめてもらおう。

田邉太一はつぶやく。
＜幕府外交はよくやった＞
国内問題があったにも拘わらず、幕府は国益をまもった。樺太はやられたが、北海道、対馬、沖縄、小笠原諸島を守った。幕府外交がしっかりしていなければ、北海道と対馬はロシアに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに占領されていた筈だ。朝鮮半島はロシアに占領され朝鮮語を話す民族はロシアの奥地に強制移住させられてロシア語圏になっていただろう。

田邉太一はつぶやく。
＜幕府外交はよくやった＞
国内問題があったにも拘わらず、幕府は国益をまもった。樺太はやられたが、北海道、対馬、沖縄、小笠原諸島を守った。幕府外交がしっかりしていなければ、北海道と対馬はロシアに、沖縄と小笠原諸島はアメリカに占領されていた筈だ。朝鮮半島はロシアに占領され朝鮮語を話す民族はロシアの奥地に強制移住させられてロシア語圏になっていただろう。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(4-1)</title>
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   <published>2011-12-12T00:40:43Z</published>
   <updated>2011-12-12T00:42:58Z</updated>
   
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   <author>
      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      私田邉康雄は、NＰＯ法人米欧亜回覧の会の会員です。この度、誘われる機会があったので同会ウエブサイトにこのタイトルで投稿することにしました。第一回はさる7月（2001年）に、第二回は10月に、そして第三回目～第四回目を12月7日に投稿しました。以下、第四回の内容を以下に紹介します。投稿した原文のままです。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
前回は幕末外交談の「擱筆のことば」を紹介しました。これは“あとがき”とは明記されていませんが、それに相当する部分です。ここで太一は鬱憤晴らしをやりました。今回は、この鬱憤を、太一の屋敷跡に住む太一の子孫が、太一から直接聞いた気分になって更に拡大して紹介します。

―●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○―
阿部正弘の無策をくどくどと嘆く。

田邉太一はつぶやく。
＜江戸城金庫が空＞
阿部正弘がやるべきことは以下のようなものであった。従來の長崎に加えて横浜、神戸、函館など幕府直轄地に限定し、かつ、外人の行動範囲を制限して開国する。その際、清に使節をだして上海の租界を大いに学び、わが国に不利な事態が発生しないように事前に防備策を立てる。貿易を管理貿易とし、外国品に関税を掛けて幕府の収入として江戸城金庫を富ます。

田邉太一は更につぶやく。
＜諸藩に相談する必要はなかった＞
阿部のこと続く。関税で金を稼ぐだけでなく、幕府自ら、あるいは自らの息のかかった商人を使って貿易をする。稼いだ金でフランス、イギリスから軍艦と銃砲を購入する。これにより幕府陸海軍を強化する。この路線を推進できる小栗忠順を重用する。このことは幕閣内部だけで図り、諸藩には相談しない。決定事項を従來通り天皇に上奏する。これで良かった。

田邉太一はつぶやく。
＜幕府の米本位制財政のつけ＞
幕府は鎖国して米本位経済を推進した。米の生産者を支配するために、兵農分離政策をとった。兵（武士）は都市で武術に励み、農は地方で農耕に励んだ。農を支配するために地方に郷士（庄屋）をおいた。一方、流通を担当する商人を支配する兵商分離政策をとらなかった。これが幕府を衰退させた。城下町に商を支配する“町士”を作ればよかった。商を支配できなかった。

次のブログにつづく。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-8) ―　子孫が語る。</title>
   <link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.tanabe-consul.jp/blog/2011/12/38.html" />
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   <published>2011-12-11T01:08:10Z</published>
   <updated>2011-12-11T01:10:34Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(13)故に安政巳來慶應の末にるまてを通觀し其事實に顯るゝものを鑒みて予は断じていはんとす、幕府には外交のことなしたゝ朝意を奉し鎖攘をはかりて遂さる跡のみと
ペリー来航以来、幕末に至るまでを通して見ると、私は幕府上層部を弾劾する。幕府上層部には外交を語る資格はない。天皇の御意向に沿って、なるほどその御意向は薩長が誘導したものであったが、外国人を打ち払って鎖国を継続しようと努力をし、悲しいことにはその努力が報われなかった軌跡だけが残ったと。これを言って気分がさっぱりした。まことに爽快である。

次ブログへつづきます。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-7) ―　子孫が語る。</title>
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   <published>2011-12-10T00:40:04Z</published>
   <updated>2011-12-10T00:42:58Z</updated>
   
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(11) 松平總裁のこときは、やゝ気魄あり尋常紈袴輩にあらすといへとも時勢を識るの見なく殆とまたかの浪士輩に傀儡使されたるものにして、決して濟世の器ならず、
川越藩主松平直克政治総裁は、気骨のある人物で“お坊ちゃん”ではなかったが、時の流れを見る目がなかった。幕府にチャンスがあるという洞察力にとぼしく、薩長に“いいように”利用されてしまった。このような無能者を政治総裁に据えなければなかった幕府上層部のお粗末さを嘆く。太平に慣れた幕府上層部の人材不足が薩長による明治武力革命をまねいたのだ。

(12)中間小笠原、阿部、(豊後守)松前閣老のこときは、頗る開国の主義を持し、外交の外交た
る所以を知るものゝごときも、また時勢の沮する所、前疐後跋、その志を遂る事を得す、末年やゝその方を得るに及ひし時は、既に幕府運去の秋にあり、
老中を任命された唐津藩主小笠原壱岐守長行、白川藩主阿部豊後守正外、蝦夷松前藩主松前伊豆守崇広等は、開国の必要性を知り、外交の“何たるか”を知っていたようであるが、残念ながら歴史舞台への登場が遅かった。すでに薩長の目論む方向に政治は動いていた。幕府上層部には薩摩の大久保のような策士がいなかった。小栗上野介の出番が遅すぎた。なかった。

次ブログへつづきます。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-6) ―　子孫が語る。</title>
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   <published>2011-12-09T00:51:00Z</published>
   <updated>2011-12-09T00:53:50Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。
 
(9)されば、春嶽老公の如きは、其藩論は開国にありと稱し、然も奏論する所も、其意に外ならさるか如しといへとも、當時其施政上、云爲に著るゝもの、一として鎖攘の手段ならさるなし、
やっていることが分からなくなった好例は越前藩主松平春嶽である。言っていることとやっていることが違う。自藩の藩士の総意は”開国“にあるといい、自ら開国を主張していたのに、やったことは鎖国攘夷だった。つまり幕府側の人間でありながら、薩長の味方をした。本人がそのことに気がついていなかったのが嘆かわしい。賢公の名が惜しまれる。已ぬる哉。

(10) 板倉閣老にいたりては、其誠愨忠純の質、太平の宰相としては不足なしといへとも、同じく朝意に承順することにのみ力めて、朝意を回するの慮なきものゝごとし
安政の大獄に反対して井伊に罷免された備中松山藩主板倉勝静は、井伊の死後老中に復帰したが、もっとひどい。本人の資質は極めて高かったが、外国が攻めてくるという時期には通用しなかった。天皇の御意志に従うことばかり考え、御意志を変えていただくような工作はできなかった。太平の世ならば、祖父松平定信に負けない善性を敷いたであろうに。資質を惜しむ。

次ブログへつづきます。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-5) ―　子孫が語る。</title>
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   <published>2011-12-08T03:16:46Z</published>
   <updated>2011-12-08T03:19:24Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.tanabe-consul.jp/blog/">
      
      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

(7) これよりの後、安藤閣老のこときは、其天資の聡明と、應變の機智に富めるより、外交上やゝ見るべきものあるかことしといへとも、畢竟井伊元老の後を承けて、かの鎖攘の息攘を奈何とするも能はす、剰へ、和宮降嫁の事よりして、鎖攘の預約、益固く朝廷との間に結ばれたるを見る、
井伊の後の幕閣トップは老中對馬守安藤信正だった。安藤は生まれつき聡明であり、臨機応変の心得をもっていたので外交上少しは見るべきものがあったが、井伊が天皇に約束した鎖国攘夷の縛りはどうすることもできなかった。その上に天皇の妹、和宮の将軍家への嫁入りを迎えて、益々天皇の御希望、鎖国攘夷を硬く約束する羽目に陥ってしまった。見ていて苦しい。

(8) ここに於て、幕府の困厄彌甚だしを生せり、これよりその後、幕府は朝廷の譴責と浪士の横議との制せられ、首を畏れ尾を畏れ、外国と朝廷との間に介して、彷徨行ところを知らず、其志す所は如何の所にあるやを知らすといへとも、其圖る所行ふところ、一として鎖攘をなし遂け、以て朝意を達せんとするにあらさるはなし、
外国から受ける開国圧力と、天皇から受ける攘夷との板ばさみになった幕府は哀れだった。幕府は薩長の策略によって右往左往させられ、何にか知らねど恐れおののき、外国と天皇との間をうろうろと彷徨い、行ったことは結局、鎖国攘夷を成し遂げて天皇の御意志に沿おうという政策になってしまった。自分で自分のやっていることが分からなくなってしまったのだ。

次ブログへつづきます。

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   <title>辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-4) ―　子孫が語る。</title>
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   <published>2011-12-06T22:42:44Z</published>
   <updated>2011-12-06T22:45:15Z</updated>
   
   <summary>徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって...</summary>
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-2 田邉(田辺）太一の子孫田邉康雄　　幕末外交史" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。

      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。
 
(5)而して堀田閣老が　次て其事に當るにあたりては、平生の信する所を以て、一切開國の規模を定め、朝廷に啓沃して、以て我國をして萬國と并立し、其交際塲裹に立しめんとの卓見あり、其議論の正大公明なるは、天晴濟時の良相といふべしといへども、勢の不可なる、左支右吾以て其志を達するを得る能はず、
阿部の死去に伴い佐倉藩主堀田正睦が老中筆頭になった。彼には期待したが、時すでに遅かった。堀田は開国の規模をさだめて天皇を説得し、開国によって列強と正々堂々と競争しようと考えた。これは勘定奉行小栗上野介が考えた路線である。惜しむらくは、無策な阿部正弘が天皇に「どうしましょうか」とお伺いを立てた後だった。すでに流れが変わっていた。

(6)これに次て、井伊閣老あり、亦時勢外交の巳を得さるを知るものゝことくなれども、其政畧は、専ら幕府の威權を復せんとするにありて、其外交に於る、寧ろこれを第二にをくの状あり、加之、條約の勅許を請ふの際、一時の姑息よりして、鎖攘の約を朝廷に結ひ、後來幕府外政上、困難の禍胎となるを致せり
堀田の次に彦根藩主井伊直弼が大老として幕閣トップになった。時勢は「開国やむなし」であることは理解したようであるが、井伊の関心事は「幕府権威の回復」であり、外交は二の次になってしまった。それだけではない。朝廷に対して条約の許しを得る際、その場しのぎの策として鎖国攘夷を約束してしまった。これが禍根の種。時勢からできる訳がない。

次ブログへつづきます。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-3) ―　子孫が語る。</title>
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   <published>2011-12-06T00:49:25Z</published>
   <updated>2011-12-06T01:00:44Z</updated>
   
   <summary>徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって...</summary>
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      徳川幕府のNo.1“職業外交官”田邉太一の生き方を尊敬する子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。


      (3)英國公使アールコック三年在日本記事中、その事を記して、曰く千八百四十五年、英國か初て支那と戦へる以來、蘭人は世界必然の變遷を告知して、日本の耳目を開きたり、外人が日本に入るの道を準備せし、和蘭政府の公平の處置は、諸國より感謝を受るの理あり、就中、千八百五十四年ぺルリ提督が開港の功を奏したるは、蘭人豫告の力、與りて功なくんばあらず
駐日英国公使は「日本三年在住記」の中で言う。曰く「オランダ政府は、『アヘン戦争の二の舞にならないように』と日本に１年も前から繰り返し忠告した。日本においてオランダ以外の欧米列強国が活動する道を開いたことは、列強の一員として感謝している。オランダのお蔭でペリーは日本を開国させることができた。オランダ政府に感謝しても感謝し足りない」と。

(4)これ我國の國を開きしは、かの和蘭國王よりの忠告に源せしものとして、論せるものなり、されど、其實は、前にも説けるごどく、全くしかりとはいふ能はざるものなれども、理を推し勢を察すれば、自然の運此のごとくなるものを見るべし、
オールコックは、オランダ忠告のお蔭で日本は開国できたといっている。しかしこれは少し言いすぎであろう。日本の開国は時流に逆らうことのできない処置だった。即ち開国そのものはオランダ政府の通告がなくてもやっていた。それにしてもペリー来航を１年も前に通告してくれたにも拘わらず、情報を活かし切れなかった阿部正弘の無策を嘆く。繰言になるが。

次のブログにつづきます。

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   <title>田辺太一蓮舟のつぶやき　翁の著書：幕末外交談から(3-2)　―　子孫が語る。</title>
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   <published>2011-12-04T22:10:06Z</published>
   <updated>2011-12-04T22:13:13Z</updated>
   
   <summary>田邉太一をよく知る徳川幕府の外交官田邉太一の子孫が、太一に代わって太一の本音を想...</summary>
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      田邉太一をよく知る徳川幕府の外交官田邉太一の子孫が、太一に代わって太一の本音を想像して「つぶやき」の形で紹介しています。


      前ブログからつづきます。この文章自体が田邉太一のつぶやきです。行間を読んでこの「つぶやき」の真意を紹介しましょう。書き出しの先頭に付いている数字は、本文の枠の上に付いている数字に同じです。この数字によって引用箇所を明確にしました。

(1)扨幕府柄政の末にありて、外交に関する事、余耳目がの及ぶところ、略上に陳るがごとし、而してこゝに筆を擱に臨みて一言せんと欲するものあり、他なし、幕府の外人に接せしは、余をしてこれをいはしめは、これを外交とはいふべからず、其跡につきてこれを見るに、徹頭徹尾鎖國攘夷を謀りて遂得ざるの歴史たり、
幕府外交の生き字引である私が見聞きしたことはおよそ以上のようなものである。誇張や捏造はせず、ありのままを紹介した。これですっきりした。終わりに当たって言わしてもらおう。幕府外交は、外交と呼べるものではなかった。海の向こうの外国人よりも京都におられる天皇の御意向を尊重し、鎖国攘夷を図って、それが出来なかった悲しい歴史であった。

(2)初嘉永の末、阿部閣老が柄政の際にありて、全く開國に意あるが如くなりしも、世に活眼の士乏しく、この鴻圖を翼賛すべきものなく、却てこれを沮するの族多く、閣老また責に任じて、敢て断するの勇なく、事遂に姑息に陥り、國是以て定まらず
1853(嘉永6)年ペリーが初回来航した際、老中筆頭阿部正弘は“開国”の必要性を感じていたようだが、他の幕閣には阿部の意見を支えるような見識のある人物がいなかった。それどころか、“鎖国”継続を主張するものが多かった。阿部は敢えて開国を推進するような勇気がなかった。だから姑息に流れ、因習を尊んでしまった。開国富国の大きなチャンスを逃がした。

次のブログにつづきます。

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   <title>京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉（辺）朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子　―　子孫が語る（19）</title>
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   <published>2011-12-04T01:59:18Z</published>
   <updated>2011-12-04T02:01:35Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="11-4 男爵枢密顧問官正二位北垣国道が祖父田邉朔郎の岳父" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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「ままならぬは加茂の水と法師」
　と、後白河法皇が言われました。雨が降れば洪水になるのに、日照りのたびに水不足に見舞われた土地柄です。

　――　現在の京都市の発展は、琵琶湖疏水なしには考えられません。琵琶湖の水がなければ、今の京都市は奈良市と同じ程度の地方都市にとどまったでしょう。

――　琵琶湖疏水がなければ、理系ノーベル賞を数多くだす京都大学はなかったでしょう。つまり大阪に第二の帝国大学をとられたでしょう。ノーベル賞をだした島津製作所もなかったでしょう。現在のハイテク都市京都はなかったでしょう。

　――　大きな寺や神社は別にして、中小の寺社は経営が成り立たず、消滅したでしょう。そして普通の都市になり、その結果、大東亜戦争末期には米軍の空襲目標になったでしょう。琵琶湖疏水は、北垣国道と田邉朔郎から京都市民への大きなプレゼントです。


一区切りしたので、一旦ここで終わります。いずれつづきを書く予定です。

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   <title>京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉（辺）朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子　―　子孫が語る（18）</title>
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   <published>2011-12-03T00:51:46Z</published>
   <updated>2011-12-03T00:54:02Z</updated>
   
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北垣国道は、優れた経営リーダーで、乏しい経営資源を集中投入しました。前任者の槇村正直知事は総花的殖産興業政策をとり、その結果、京都府営事業が数多くできていました。北垣国道はそれらをすべて民間に払い下げて身軽になりました。そして琵琶湖疏水に集中しました。

――　総工費125万円どのくらい価値のある金額だったのでしょうか。その当時の国家予算が7000万円だったそうですから、2％弱です。これを京都市民が負担したのですから、大変なものでした。

――　たとえて言えば、上越新幹線を受益者の新潟県だけで、あるいは瀬戸大橋を受益者の香川県だけで政府の反対を押して建設したようなものでした。しかも技術的見通しのない時代に。

「日本人は安全と水は只と思っている」
　と、言われています。

　――　しかし京都の人々は自分たちの金で水を確保しました。今、京都市には深刻な水不足の心配はありません。巨大な水がめ、琵琶湖疏水があるからです。

　次ブログへつづきます。

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   <title>京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉（辺）朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子　―　子孫が語る（17）</title>
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   <published>2011-12-02T12:10:08Z</published>
   <updated>2011-12-02T12:12:30Z</updated>
   
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明治天皇が東京へお移りになった時、明治の薩長政府は10万円（現在の1000億円）の下賜金を京都市に与えました。これが二十年を経て元利合計が40万円（現在の4000億円）になっていました。これが元々の財源でした。

――　北垣国道は、これで琵琶湖疏水工事を賄おうという魂胆ですから、給料の高い、工事に安全を大きく見込む外国人には頼めなかったものです。それがデレーケの横槍で125万円に修正されました。修正に対して国からは、20万円しか出ませんでした。

――　不足分は、65万円です。この不足分を京都市民から取り立てました。地価割、戸数割、営業割だけでも25万円徴収しました。公債を20万円市民に買ってもらいました。京都府の予算から20万円出しました。即ち65万円を京都市民が負担したのです。今の価値で言うと、6500万円を新たに負担したのです。

――　税の取立てで困窮した市民の不満は大きくつのり、逃亡者もでました。「こんど来た餓鬼極道」と市中に落書きされました。来た餓鬼極道は「きたがきごくどう」と読み、「北垣国道」のことです。田邉朔郎は「若僧」と罵られました。

次ブログへつづきます。

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   <title>最近の社内技術者研修の実績　―　安全大会、安全講演、危険予知ＫＹＫ、行動災害防止、設備災害防止（9)。</title>
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   <published>2011-11-30T22:25:16Z</published>
   <updated>2011-11-30T22:27:23Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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         <category term="29  最近の技術者研修実績" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   
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      前ブログからつづきます。

　2011年9月17日、建設業関連の太平エンジニアリング様から電話を受けました。安全大会における安全講演をやってほしいと。その前日の2011年9月16日に建災防東京支部北多摩分会で安全講演をした翌日でした。

――　建災防から評判を聞き、建災防が紹介を受けた八王子労働基準協会から紹介を受けたので太平グループにおける安全大会の安全講演をやってほしいと。

――　　大変うれしい話でした。芋ずる式にリピートがつながってくるのですから。講師としては大変うれしいです。

――　今回は労働安全衛生コンサルタント会経由ではなくて、私に直接でした。しかしコンサルタント会を通していただくようにお願いしました。

講演時間は、60分であり、コンサルタント会が提示した講演料は、70,0000円だったと聞いています。まだ受領していませんが。私はこれで承りました。

一旦終了して次の案件があった場合に書きます。

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   <title>京都の命の水、琵琶湖疏水の設計者、田邉（辺）朔郎とそれを命じた正二位男爵枢密顧問官北垣国道が義理の親子　―　子孫が語る（15）</title>
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   <published>2011-11-29T23:50:19Z</published>
   <updated>2011-11-29T23:52:26Z</updated>
   
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      <name>田邉康雄</name>
      
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      前ブログからつづきます。

幕末明治の倒幕志士としての北垣国道を前ブログまでにおいて紹介しました。

――　私は以下のように考えます。
北垣国道は志士として活躍した京都。そのときの思い出のある京が衰退していることを見るに忍びなかったものと思われます。

――　明治の初めに明治天皇が東京に行幸されました。そして帰って来られませんでした。これにより、40万人の人口が20万人に減少しました。この時期に当たって北垣国道が第三代京都府伊（知事のこと）として着任しました。

――　これを見た北垣国道は、京都の復興を計画しました。

次ブログへつづきます。

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