生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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琵琶湖疏水下り(8):明治維新による京都の危機(衰退)、それを救った薩長の琵琶湖疏水

京都市上下水道局が『琵琶湖疏水下り(通船)』を復活し、来る3月29日から運行開始します。以下のURLを見てください。https://biwakososui.jp/biwakososui/ 
これに因んで琵琶湖疏水を説明します。タイトルは以下の通りです。

主タイトル:明治維新による京都の危機、それを救った薩長の琵琶湖疏水
副タイトル:「恩讐の彼方へ」協力した徳川幕臣たち ~ 明治維新150周年に当って明治維新に関係した薩長/幕臣両者子孫の回想と将来展望

215.
216. 〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
217. ⅩⅩⅡ <なぜ土木工学の朔郎が発電設備を設計できたか?>
218.   1)朔郎曰、「私は土木技術者ということになっているが、あの時代、技術者が専門知識だけをもっていても、
219.    何もできなかったのだ。今(昭和15~17年)は、技術が細分化されて、それぞれ深く研究されているが、
220.    技術者たる者は、自分の専門分野だけにかかわっていてはいけない。常に技術を広く興味と感心をも持つ
221.    べきである。これは今も昔も変わらない技術者の心得である」と。
222.   
223.   2)確かに朔郎は、今日でいう「土木」以外の設計をやった。水車の回転速度調節機を発明した。
224.    後、北海道鉄道網建設の際に、自動連結器を発明した。即ち、機械設計をしたのだ。
225.
226.   3)化学実験も自ら行った。田邉康雄が育った朔郎の旧宅には、化学実験室があった。過マンガン酸カリ、
227.    次亜塩素酸ソーダや硫酸礬土などがあった。浄水実験をしていたものと思われる。化学設計もした。
228.    因みに康雄は、中学生の頃、忍び込んで化学薬品で遊んだ。これが化学分野に進学したきっかけ。
229. 〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
230. ⅩⅩⅢ  <ところで、「日本人の手だけで成功させた」?>
231.   1)表現は間違っていない。しかし、誤解を招く恐れがある。真実は、――。
232.   2)当時の世界最高レベルの Engineering を英語で学べる大学が日本にあった。朔郎はその大学で学んだ。
233.   3)その朔郎が技術担当だったので、世界最高の技術を英語で導入して、工学的成果を生んだ。
234.   4)「日本人の手だけで・・・」は、表現に間違いはないが、誤解をまねく。
235. 〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
236. ⅩⅩⅣ <なぜ世界最高の工学(Engineering)を日本において英語で学べたか?>
237.   1)長州ファイブの伊藤博文 ⇒ ジャーディン・マセソン商会のJ・マセソン
238.   2)岩倉遣米欧使節団の副団長 ⇒ 英国でマセソンに依頼した。
239.   3)「工学を教えてくれ」と。マセソンは快諾した(ビジネス故)。
240.
241.   4)産業革命の中心地(重工業)スコットランドのグラスゴー大学を訪問した。
242.   5)ヘンリー・ダイアー都険(実質的校長)以下約20名の新進気鋭教授が来日して10年間教えた。
243.   6)Imperial College of Engineering, Tokei(日本名:工部大学校、文部省ではなく工部省管轄故)
244. (この項は、『平成14年度 経済産業省委託事業 産業技術人材育成支援事業 関連資料、平成14年度社団法人
245.  日本工学会委託調査報告書【平成14年度経済産業省委託事業における開発モデル事業全体に対する調査分析
246.  研究報告書~技術者継続教育事業展開の具体策策定~」報告者有限会社田辺コンサルタント・グループ
247.  代表取締役社長田邉康雄、p-1まえがき、2003年2月20日より引用)
248.
249.   7)これは、他に特筆すべき具体的成果の無かった岩倉使節団にとって唯一の大成果だった。
250.   8)因みに、田邉太一は同使節団の書記官長。伊藤博と文とともにグラスゴー大学を訪問した。
251.   9)帰国後、田邉朔郎に「工部大学校」入学を勧めた。
252.   10) 朔郎は最難関の Civil Engineering 科に合格し,英語による全専門科目を断然トップの成績で卒業した。
253.   11) 朔郎はヘンリー・ダイアーの一番弟子と言われる(後2度、英国の御自宅を訪問した)
254.
255. 〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●〇●
256. ⅩⅩⅤ <ついでに、「日露戦争は日本の工学の勝利」。>
257.  1)開戦前(明治35年10月10日)にロシア軍参謀アバダシ氏が日本の工業力を調査しにきた。疏水下りをして
258.   京都へきた(7日)。そして京都帝大木下総長と京都府大森知事に語った。曰く、「日本は工学が進んでいる。
259.   侮れない」と。さらに田邉朔郎に会い、計画の成った「第二疏水」の話を朔郎から直接聞いて日本の工学
260.   レベルを確認した(10日)。
261.
262.  2)事実、日本海海戦は日本の工学の勝利に終わった。木村俊吉の無線電信と島津源蔵の蓄電池(信濃丸の
263.   「敵艦見ゆ」)、下瀬火薬と伊集院信管(海中に落ちた砲弾も爆発して強力な火炎が敵艦を襲った)、
264.    バー&ストラウス式距離測定器(グラスゴー大学教授発明の試作品をいち早く導入)など、そして
265.    何よりも徳川幕府勘定奉行小栗上野介がフランス技術によって建設した横須賀の大造船所であった。
266.
267.  3)日露戦勝利後アダバシ氏に因んで明治38年、京都市会は以下の文字を第一疏水入口(伊藤博文「氣象萬千」
268.   の上)と京都出口(三条実美「美哉山河」の上)に刻むことを決した。即ち、――。
269.          (田邉朔郎著「石齋随筆(42疏水下り)」(昭和12年9月10日丸善発行p-12
270.  「SAKURO TANABE DR ENG ENGINEERINER IN CHIF WORK COMMENCED AUGST 1885 COMPLETED APRIL 1890」
271.          (西川正治郎著「田邉朔郎博士60年史」(大正13年5月20日山田忠三発行~付属年譜p-22)
272.  
273.  4)余談ではあるが、重要なことを付け加える。国道の引き回しにより、工学者朔郎はシベリア鉄道の
274.   建設状況を現地調査し、大山巌参謀長に報告した。「明治38年末にウラジオストクまで開通する」と。
275.   これを受けた桂太郎首相は、明治37年2月の開戦を決意した。これも工学の勝利の一端であった。


次回(9)に続きます。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2018年03月17日 15:08 |

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