生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

« 琵琶湖疏水下り(15):明治維新による京都の危機(衰退)、それを救った薩長の琵琶湖疏水 | メイン | 明治維新150年を感じる「びわ湖疏水船」(京都市の「地方創生推進」事業)に乗船してきました。(1) »

日経夕刊 木内昇歴史小説『万波を翔る』の主人公 田辺太一を、子孫田辺康雄が語る(27)最終回

昨年(2017年)12月5日に小説「万波を翔ける」230回に関する解説をブログに入れてから3ヶ月以上、私田邉康雄は、他に優先しなければならない業務があったので、木内小説に関するフォローはできませんでした。そして昨日の2018年3月24日に最終回(321回)を迎えてしまいました。

―― 終盤における大きな期待外れ
先週の3月19日の「317回」において以下のような記述がありました。「太一は、この(慶応4年)8月に徳川家が駿河に移封されるのを機に、自らも同地に移ることを決めた」と。確かに太一は、明治2年5月16日付で徳川家沼津兵学校へ一等教授として赴任するのですが、木内昇さんの小説に書いてある「赴任を決心した時期」は、実際とは大きく異なります。

―― 無血開城に際して田邉太一が取った過激な行動
江戸開城に当たり太一は、勘定奉行小栗上野介を助けて将軍徳川慶喜の前で勝海舟と対峙しました。そして小栗上野介とともに、「対薩長軍徹底抗戦」を主張しました。
しかし徳川慶喜は、立ち上がりません。多くの幕臣を残して水戸に逃亡しました。慶喜は鳥羽伏見の戦いにおいては、総司令官でありながら兵を残して江戸へ敵前逃亡しましたが、まったく同じような行動を繰り返しました。
太一はやむなく下野して横浜に行き、江戸を脱出して「対薩長軍徹底抗戦」した榎本武揚、大鳥圭介、荒井郁之助を支援しました。
具体的には、培った列強との外交ルートを通じて函館五稜郭に立て籠った榎本軍を(軍資金の調達等で)支援したのです。
そして明治2年5月15日に榎本軍が薩長軍に降伏したことを見届けて翌16日付で沼津へ徳川家から請われて赴任しました。
私は「対薩長軍徹底抗戦」した田邉太一、榎本武揚、大鳥圭介、荒井郁之助の四人を誇りにしており、「対薩長徹底抗戦四人組」と名付けております。

―― 日経新聞御担当者の釈明
本件、御担当の日経新聞文化部近藤ヤスノリ様から、東京学芸大学副学長大石学先生の御紹介ということで、2018年3月23夕刻にお電話を受けました。近藤様は、「万波を翔けるは、①『時代小説』であり、かつ、②『フィクション』である、言われました。
これに対して私は、迷惑していることをお伝えしました。私の6親等に当たる血族、田邉太一に関して事実と異なることを書かれて迷惑していると。しかし迷惑していることはここで一旦脇に置きます。

―― 一貫性を欠いた、木内昇さんによる田邉太一の性格描写
ここで木内さんの御小説を論評させて頂きます。即ち、「木内さんの描いた太一は、その性格において一貫性がない」と。
即ち、これまで小説の中で、日本国のためを思い、徳川幕府に対して反骨精神を示してきた幕臣太一と、大政奉還後の太一とでは一貫性がありません。
江戸開城の時点で、なぜ「尻尾を巻いて」沼津の兵学校へ引き上げるのでしょうか? その必然性は? その点において木内小説には「流れ」の一貫性が成立しません。
私は、主人公を登場させる小説において、もっとも重要な要素は、主人公の性格描写であると考えております。主人公太一の性格描写に関して、木内さんはどのようにお考えなのでしょうか? 私には理解できません。

―― 史実に沿った流れの中の軽快な会話創作
木内さんは小説の流れを台本『幕末外交談(田辺太一著)』に記載されている通りに進められました。ですから、流れは私にとって斬新なものではなく、私は木内さんが創作された軽快な会話を楽しんでおりました。

 ―― 台本が無い
太一による台本は、『大政奉還後の外交』の章で終わっています。この章は、慶応3(1867)年12月16日(旧暦)に徳川慶喜が大阪で各国公使を引見した事実の紹介をもって終わっています。

 ―― 台本なしの期間
しかし木内昇さんは、台本の無い明治4(1871)年春頃まで書かれました。即ち、3年間分以上は、「台本(幕末外交談)無し」で書かれました。大まかにいうと、日経夕刊2018年3月1日(302回)以降2018年3月24日(321回)最終回までの19回分は、太一の台本無しでした。
 
 ―― 終幕のどたばた劇
 私の目には、台本の無い時代の描写が、台本の有る時代の描写と質が大きく低下して見えました。「時間に追われて『どたばた』と演劇の幕を下ろした」としか私の目には映りません。追われた分だけ質が低下して見えます。

―― 直木賞への評価
木内昇さんは、直木賞を受賞されたと紹介されています。受賞作品がどのような小説であったか私は知りません。しかし今回の「小説の流れ」の展開は、私にとって直木賞の評価を低下させるものでした。
「フィクション」の「時代小説」とは言え、(周辺の人物を含めて)実名を使用し、数多く存在する「先行公知文献」と大きく異なる流れを創作されたことに対しては、これを「独創性」というよりは、「勉強不足」と呼ばせていただきます。

―― 日経新聞へのお願い
私は、お電話を受けた日経新聞文化部近藤ヤスノリ様に申し上げました。「田邉太一は、明治になってからの方が面白い」と。「ついては、(今回急いで幕を下ろした)大政奉還以後を取り上げて、1916(大正5)年、85歳で没するまでの後編を書いてもらうようにお願いしてほしい」と。「もしもお書きになるならば、私が所持している材料を提供できる」と。「沼津市明治史料館(沼津兵学校記念館)等を紹介できる」と。「太一の娘、三宅花圃の孫三宅立雄にも声を掛けることができる」と。さらに、「明治の漢学者田邉蓮舟(太一のこと)を研究しておられる学者達も紹介できる」と。

以上で、木内昇歴史小説『万波を翔る』の主人公 田辺太一を、子孫田辺康雄が語る(27)を終わります。最終回でした。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2018年03月25日 21:34 |

« 前の記事 | 次の記事 »

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




youtue

京大OB・OGガイドブック

初回メール相談無料

エントリー検索

 

カテゴリー

アーカイブ

労働安全衛生マネジメントシステム

田辺コンサルタント著書の書籍紹介

商店街の街並み設計

田辺コンサルタント・グループ
代表取締役 田邉康雄
〒140-0014
東京都品川区大井6-20-6
TEL 03-3776-2495
FAX 03-5742-7695
お問合せフォーム

このブログを購読