生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

« 読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(39) | メイン | 木内昇歴史小説『万波を翔る』の主人公 田辺太一を、子孫田辺康雄が語る(20) »

読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(40)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、北垣国道の「第一生」~「第三生」をしゃべりました。最終回の今回は、曽祖父と祖父を見倣って生きる私田邉康雄の生き方も、合わせてしゃべります。

 ―― 国道の人生、その特徴をまとめてみます。一言でいうと、「人生を他人任せにせず、自分で切り開いた人生」と言えます。人任せの人生ではなく、常に自分の手に選択肢を残し、それを行使した人生でした。
 幕末においては、倒幕活動により徳川幕府の「お尋ね者」となって名前を二度も変え、なお倒幕活動にその身を投じました。その都度ゼロから出発という大きな別れ目、大きな選択肢を行使しました。

 ―― ポストを蹴る。
明治になってからの国道を表現するために、「蹴る」という、分かりやすい表現をお許しください。こんな卑近、かつ、失礼な表現をお許しください。 
国道は、せっかく藩士に取り立ててもらった鳥取への残留を2回「蹴り」、志願して赴いた(北海道)開拓使では薩摩の黒田清隆を「蹴り」、伊藤博文が世話してくれた元老院を「蹴り」、内務次官を「蹴り」ました。蹴って京都復興と北海道防衛に尽くしました
自分自身の「立身」よりも、「世の中に役に立つ、具体的な『もの』を後世に残したい」。その一念でした。読売新聞の畑夏月記者が書いてくださったように、「国家に捧げた一生」でした。即ち、奉公の一生でした。

―― 国道に「倣う」田邉朔郎
朔郎は、「怖い」国道が他界した後で、国道に倣って初めて、「蹴り」を実行しました。遅ればせながら、自分の人生を自分で切り開きました。即ち、依頼を受けた京都市長のポストを断りました。
朔郎にとってこれが最初にして最後の「蹴り」でした。そして独立コンサルタントとして83歳まで生涯現役エンジニアとして生きました。即ち、それまでのように公職に固執することなく、独立鉄道コンサルタントとして国家のために大きな成果を残しました。
例示すると、日本初の長大トンネル複線電気鉄道(丹那トンネル)、日本初の大河川底トンネル電気鉄道(大阪地下鉄)、世界初の海底トンネル電気鉄道(関門トンネル)、世界初の弾丸列車基本計画(大阪~名古屋)です。弾丸列車計画は、計画中止してから22年後に新幹線として実現しました。

―― 国道、朔郎に「倣う」私、田邉康雄 
「立身よりも奉公」の遺伝子は、国道のひ孫、朔郎の孫の私も引き継いでいるようです。三菱化成・三菱化学に勤務していた時、与えられたポストを何度も、国道に倣って「蹴らせて」頂きました。恩義のある三菱化成・三菱化学に対して「蹴る」という言葉は不穏当ですが、国道の話の延長ですからどうぞお許しください。即ち、――。
修士卒で新入社員配属を受けた中央研究所において与えられたテーマ二件は、二件とも成功させましたが、2年で「蹴っ」て黒崎工場技術開発部門。小さなプロジェクトながら「A」プロジェクト、および「B」プロジェクトのリーダー(以下、PL)、同製造部門「C」PL。それが完成してその部門を「蹴っ」て水島工場技術開発部門「D」PL。それを「蹴っ」て製造部門「E」PL。さらにそれを「蹴っ」て本社事業部門「F」PL。それを完成させた後、内示を受けた本社の「ある」室の室長を「蹴っ」四日市工場の技術部門で新設プラントのトラブルシューティング「G」PL。それを完成させて本社事業開発部門「H」PL。しばらくして尊敬する先輩から「後任を頼む」と依頼された総合研究所「I」研究所の所長を「蹴っ」て、「J」PL。
以上「A」~「J」、引き受けたプロジェクトにおいて、三菱化成・三菱化学(現三菱ケミカル)の「役に立つ事業」を残しました。プロジェクトの6件が社長賞を受賞し、内一件が大河内生産(特賞)を受賞しました。自分の立身よりも、三菱化成・三菱化学の発展を優先した結果でした。
これだけの実績を上げましたが、三菱化学(現三菱ケミカル)に固執せず、定年退職後は独立化学安全ISOMSコンサルタントになりました。スケールは全く比較になりませんが、生き方だけは曽祖父国道、祖父朔郎の真似をしたものでした。話戻ってーー。

―― 国道の再評価(1)
生野の変は、脱藩福岡藩士平野國臣が行ったものとなっています。しかし首謀者は、地元の庄屋、北垣国道です。これは最近実施された土地の識者による調査によってはっきりしています。

―― 国道の再評価(2)
琵琶湖疏水による京都復興と、北海道官営鉄道敷設は、田邉朔郎が行ったものとなっています。しかし、京都府知事、北海道庁長官北垣国道が発案・推進しました。これも記録によってはっきりしています。明治時代にこんな大きな社会基盤整備に貢献した人は、私は国道の他に知りません。

―― 結語
「桓武天皇が都と定めた京の地は、1100年間玉座を戴いて栄えた。その京が、薩長による明治維新の際の明治天皇東京拉致によって大衰退した。薩長に協力して明治維新成功の一翼(倒幕の先駆け生野の変~戊辰戦争)をになった北垣国道は、京を衰退させた薩長新政府側の反省に立って、社会基盤(水、電気、教育)を整備した。この基盤に立って京の地は現在、2000年の生きた歴史と最先端科学技術が共存する、世界一ユニークな大都市へ発展した。国道が京都市民に与えた恩恵は図り知れない」と。

これを結語とし、40回に渡った「倒幕の志『生野の変』首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る」を完結します。史実を正確に再現した記事、「(明治)維新の記憶、1863年、生野の変」を書かれた読売新聞大阪本社の記者、畑夏月様の労を多とします。御苦労さまでした。

――――――――――――――――――――
このコンテンツは、私田邉康雄が有限会社田辺コンサルタントグループのホームページにブログに載せ、同時にSNSのツイッターとフェイスブックによって発信しているものです。さらに、名刺交換した方々等にメールマ田は
このコンテンツにおいては、自分の意見を述べる、いわゆる「べき論」は、これを避け、私が知っている歴史的事実を紹介しております。

事実とは言え、私見と身贔屓が入っていることはお許しください。「歴史認識はひとり一人異なる」。「異なってよい」。これが私の姿勢です。

―――――――――――――――――――――

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年09月07日 07:13 |

« 前の記事 | 次の記事 »

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




youtue

京大OB・OGガイドブック

初回メール相談無料

エントリー検索

 

カテゴリー

アーカイブ

労働安全衛生マネジメントシステム

田辺コンサルタント著書の書籍紹介

商店街の街並み設計

田辺コンサルタント・グループ
代表取締役 田邉康雄
〒140-0014
東京都品川区大井6-20-6
TEL 03-3776-2495
FAX 03-5742-7695
お問合せフォーム

このブログを購読