生涯現役エンジニアブログ

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読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(39)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、北垣国道の「第一生」~「第三生」をしゃべりました。そして今、北垣国道像をひ孫の立場から総括します。

―― 財産を残さなかった国道
国道は、京都鴨川の畔、丸太町橋の少し南に住んでいました。国道の直系子孫、北垣圭一によると、「夜逃げするように転宅した」そうです。
晩年国道が社長をしていた北海道の函樽鉄道が国の方針によって、国に買収されました。その際の価格は極めて低かったと言われています。
私は考えております。「それまでの投資が回収できなかったことが最大の原因だった」と。私はさらに考えます。「国道は、民間会社の経営は上手でなかった」と。

―― 国道の得意技とその恩恵
人脈を辿って寄付を集め、自分も身を削って寄付して国家の社会基盤を作る。ここに北垣国道は、真骨頂を発揮したと考えております。
ですから、北垣国道の恩恵を受けた人が、(日頃は目には触れない社会基盤ですから、それを受けた本人は気が付いている居ないでしょうが)数多く居ます。もっとも多くの恩恵を受けた人が京都市民です。その恩恵は現在にまでも繋がっています。

個人として最大の恩恵を受けた人は、田邉朔郎でした。戊辰戦争の敗者、旧幕臣の殆どが、生活が成り立たないほどに没落した中にあって旧幕臣朔郎は、国道に使ってもらって京都復興に対して大きな足跡を残させてもらいました。その結果、京都市民によって、国道と共に「銅像(立位塑像)」を建てて頂く栄誉に浴しました。

1000年の都、京都は第50代桓武天皇から第122代明治天皇までの「御陵」が数多く、(畏れ多いということでしょうか)京都で活躍した歴史上の超有名人物でさえ青空の下での立像は建ててもらっていません。銅像の少ない都市です。
その地にあって、私の曽祖父と祖父、二人の立像を建て頂いたとは、大変畏れ多いことで恐縮しております。

―― 国道の血筋
国道のプレゼントは、それに留まりません。最愛の長女を嫁に呉れました。その際、国道が倒幕運動において使用した佩刀を、長女静子に嫁入り道具として持たせました。
このことは、「北垣の血筋は、朔郎田辺家に託した」との意思表示であると、私は考えております。
因みに、朔郎はこの佩刀を大切に保管してきました。そしてこの佩刀を私康雄が相続し、それを現在、生野の変の記念館(生野書院)に寄託してあります。

―― 国道の遺品
国道の記憶物は、あまり残っていません。兵庫県養父市能座建屋の北垣国道旧宅跡には、現在記念樹木(左巻きカヤの木)が一本立っているだけです。京都鴨川畔の住居も残っていません。
私どもの京都の実家にある、朔郎の蔵の中に朔郎の史料とともに若干のものは残っています。そしてそれは現在、京都市琵琶湖疏水記念館に寄託中です。 

―― 国道の墓  
すでに述べた、京都黒谷金戒光明寺の国道の墓は、田邉朔郎の真如堂前の自宅から約300メートルしか離れていません。国道がここ黒谷に眠りの場所を定めた理由は、(記録には残っていませんが)「朔郎の近くに居たい」との意思表示であると、私は考えています。ですから私も、真如堂前の実家に帰る度に墓参をしております。

国道の「第二生(京都復興)」と「第三生(北海道と国政)」は、朔郎無しには実現しなかったのです。ですから、あるいは、「朔郎の活躍を見守りたい」、あるいは「阿弥陀仏の身許から朔郎を守護したい」という気持ちだったかもしれません。

私は国道の墓参の度に、「但馬の旧家北垣の血は、朔郎田辺家に託した」との声が聞こえるような気がします。その声に応えて国道の血を私の子や孫に伝えました。私の子は、国道の五代目です。そして私の孫は国道の六代目です。

私も遅かれ早かれ阿弥陀仏の身許の国道の傍に行きます。その際、国道から「よく血をつないでくれた」と言ってもらうことを楽しみにして現在生きております。

―― 国道への回顧
組織力があるとは言えない但馬の片田舎に生まれ、徳川家康に対するルサンチマンだけを原動力に据え、一匹狼が仲間の狼を増やし、増やして生きた結果が、徳川幕府を倒した薩長の仲間に入りこむことになりました。

この仲間を大切にし、そこから派生してできた徳川幕府の仲間も大切にして生きました。そして倒幕に成功しました。倒幕成功後、倒した徳川幕府関係者と、戦争後2年にして和解して仲間を増やしました。

「挑戦」、「挑戦」、「挑戦」の連続人生でした。挑戦しながら、(内容としては)人の三倍も生きました。風の如く現れ、風の如く消えて行った。この風の恩恵にあずかる人々が数多くいました。しかし「誰も恩恵を受けたことを感じない」ほど穏やかな風でした。


次回は、国道と朔郎の人生を見倣う康雄と題してまとめます。

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このコンテンツは、私田邉康雄が有限会社田辺コンサルタントグループのホームページにブログに載せ、同時にSNSのツイッターとフェイスブックによって発信しているものです。さらに、名刺交換した方々等にメールマガジンで発信しております。

このコンテンツにおいては、自分の意見を述べる、いわゆる「べき論」は、これを避け、私が知っている歴史的事実を紹介しております。

事実とは言え、私見と身贔屓が入っていることはお許しください。「歴史認識はひとり一人異なる」。「異なってよい」。これが私の姿勢です。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年09月05日 07:14 |

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