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読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(36)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、北垣国道の「第一生(倒幕の志士)」をしゃべりました。今、「第三生(北海道防衛と国政参加)」をしゃべっています。

 前回(35)、 北海道とのつながりを大切にして「開拓使」に高等官七等で出仕できた国道を紹介しました。以下、薩長政府における順調な出世振りを見てください。

明治6(1873)年1月:開拓使東京詰、高等官六等 ・・・中央官庁古参課長クラス
        4月:石狩以北物産取調掛 浦河支庁在勤
明治7(1874)年1月:開拓使高等官五等・・・中央官庁部長クラス
          開拓使高等官四等の榎本武揚は開拓使を去りました。
        5月:樺太支庁在勤・・・これは黒田清隆による左遷といわれている。 
9月:依願して開拓使をやめる。・・・黒田清隆と意見が合わなかったので国道から辞表を叩きつけたと言われています。
       11月:開拓使満5年勤続下賜500円・・・辞めるに当たって頂いた慰労金です。

―― 自由民権運動
明治7(1874)年11月に黒田清隆に辞表を叩きつけた北垣国道は、野にあって自由民権運動に飛び込みました。しかし、1年も経ずしてーー。

 ―― 薩長政府に復帰
明治8(1875)年7月:元老院少書記官・・・長州奇兵隊時代に交流のあった伊藤博文の推挙と言われています。しかし、元老院は閑職でした。
そして半年も経ずしてーー。
       12月:元老院退任・・・閑職を嫌いました。
そして薩長新政府が、有能な北垣国道を放っては置かなかったものです。以後以下のように、順調に国政官界への道を歩むことになりました。
明治10(1877)年4月:熊本県大書記官(高等官四等?)・・・西南戦争後の熊本の復興
        6月:働きがよいので御褒美「慰労酒肴料」下賜されました。
        12月:「鹿児島県逆徒暴動の際、功」賞金300円下賜されました。

明治11(1878)年7月:内務省少書記官・庶務局長・・・内務省の「局長」に昇進しました。

知事になるための準備でしょうか、大阪府、兵庫県、岡山県、広島県、愛媛県、高知県、長崎県、福岡県、大分県の巡回を申し付けられました。
当時の道、府、県は、現在のような選挙によるものではなく、本省である内務省から任命されて就任しました。
その準備をこなしてーー。

明治12(1879)年6月:高知県知事・・・ついに知事(高等官三等?)になりました。
明治13(1880)年3月:徳島県を分離し、高知県知事のまま、徳島県知事を兼任。
明治14(1881)年1月:京都府知事

京都府における活動は、「第一生」で琵琶湖疏水に関して述べましたからここでは省きます。

明治19(1886)年7月:高等官ニ等・・・奏任官から勅任官に登りました。

京都府知事時代の大働きを評価されて、次の昇進ポストが示されました。薩長政府にとっては喫緊の課題であった「京都復興」を大成功させた大働きを評価されたものでした。

京都復興が、なぜ喫緊の課題だったのか。すでに述べましたが重要ですから繰り返します。まず倒幕運動時代に長州藩が蛤御門の変を起こし、その中で大火を発して京都市街を焼け野原にしてしまったことです。そして何よりも、明治天皇を東京に拉致し奉り、京都の活気を無くしてしまったことでした。

明治25(1892)年7月:内務省次官・・・なんと、内務次官です。初代内務大臣は大久保利通であり、内務大臣の権限は極めて大でした。内務次官とは大出世でした。しかし国道は、任命を受けて三日間在任しましたが、熟慮の上で辞任しました。そして、――。 

        7月:北海道庁長官・・・自ら志願しました。もしかしたら、当時の内務大臣、土佐閥、河野敏鎌を嫌ったのかもしれません。しかし北海道への思いが強かったものと私は考えております。

明治29(1896)年4月:高等官一等(勅任官)拓殖務省次官、男爵(薩長政府における実績、プラス明治維新の功)
明治32(1899)年8月:勅撰貴族院議員

(この間、貴族院議員として国政に参画しました)

明治45(1912)年5月:枢密顧問官(親任官)・・・ついに親任官になりました。明治天皇により親任式が開催され、その場において天皇から親しく任命されました。これにより薩長政府のトップの一人となりました。

(枢密顧問官として10年以上、国政に参画しました)

以上が、時系列的に整理した国道の北海道⇒国政の軌跡です。

―― 逝去
大正5 (1916)年1月:死去(79歳、於京都市の自宅) 没後正二位 勲一等旭日大綬章・・・
平安時代の太政官制度をそのまま導入したとはいえ、官位はインフレになっていました。正二位は平安時代なら、左大臣や右大臣に相当したそうですが、江戸時代は、徳川征夷大将軍が就任時に正二位でした。
明治の太政官制度では、私が知っている範囲の軍人でいうと、陸軍大将乃木希典、陸軍大将大迫尚敬(私の妻、智子の曽祖父)が没後正二位でした。三条実美、岩倉具視、伊藤博文は正一位でした。

―― 天皇陛下のお使いを迎えた葬儀
葬儀は、京都黒谷金戒光明寺において執り行われ、本堂の裏に埋葬されました。葬儀には、勅使が差し遣わされ、京都歩兵第38連隊から一個大隊の儀仗兵が参列したそうです。尊王の志が高く、それを心の拠り所にしていた国道はさぞや自分の人生に満足を感じたことでしょう。

次回(37回)は、この間の主な事績を紹介し、国道の生涯を総括します。

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このコンテンツは、私田邉康雄が有限会社田辺コンサルタントグループのホームページにブログに載せ、同時にSNSのツイッターとフェイスブックによって発信しているものです。さらに、名刺交換した方々等にメールマガジンで発信しております。

このコンテンツにおいては、自分の意見を述べる、いわゆる「べき論」は、これを避け、私が知っている歴史的事実を紹介しております。
事実とは言え、私見と身贔屓が入っていることはお許しください。「歴史認識はひとり一人異なる」。「異なってよい」。これが私の姿勢です。

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投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年08月31日 07:12 |

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