生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

« 読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、曾孫田辺康雄が語る(27) | メイン | 読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(29) »

読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(28)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、さらに語ります。

国道の「第二生」、京都復興の柱である琵琶湖疏水。この設計担当者田邉朔郎を語っております。そして、「第一琵琶湖疏水」と「第二琵琶湖疏水」の意味の考察に戻ります。

―― 第一琵琶湖疏水は北垣国道によるパイロット
これが考察の結論です。

北垣国道が明治18年に着工し23年に完成した第一琵琶湖疏水は、パイロット導水でした。現在でも、長大トンネルを掘削する際は、先導坑を掘り抜いてから本坑掘削に着手すると聞いています。例えば青函トンネルの例をテレビで見ました。
第一琵琶湖疏水の直列三本のトンネルは、いわば第二琵琶湖疏水の先導坑でした。ご存知のとおり、第二疏水のトンネルは、琵琶湖から京都蹴上まで、第一疏水のトンネルに沿った一本の、より大きな通水量を有する7.4㎞の、明治45/大正1(1912)年に完成した当時としてはかなりの長大トンネルす。

―― 北垣国道の取組姿勢
第一琵琶湖疏水の最難関、第一トンネルを掘り抜いた後のルートは固まっていませんでした。「南一郎平が描いた通水線路図に従ってとりあえず、最琵琶湖寄りで最難関の第一トンネルを掘り抜いて、成功したら後のことはそこで考えよう」。
と、このように北垣国道は考えていました。さすがは、幕末において、命を何度も担保に入れて何度も成功した討幕の志士です。度胸が据わっていました。

―― 観光名所、南禅寺と永観堂
北垣国道は漠然と、「山科からトンネルを抜いてこの辺り(即ち、南禅寺と永観堂の辺り)に出よう」と考えていました。そして、「鹿ケ谷の高低差は、(パナマ運河のような)閘門式運河によって船を上げ下げしよう」と。
さらに、「その横に白川まで小川を何本も引いて、水車小屋を誘致しよう」と。誘致対象は、西陣織などでした。本項の参照:『改訂琵琶湖疏水要誌(全)』明治29年7月、京都市参事会刊行

「もしも、北垣国道の考えがそのまま実現していたら?」
と、考えるだけでも恐ろしくなります。現在の観光名所、「哲学の道」、「南禅寺別荘群」、「南禅寺水路閣」、「インクライン」はなく、その辺りは工業団地になっていたのですから。そして南禅寺と永観堂そのものも、大きく損傷を受けて見る影もなくなっていたでしょう。

―― エネルギー効率に疑問を抱いた工学者(エンジニア)田邉朔郎
朔朗は、第一トンネルの工事を指揮している間に、この北垣国道の計画に疑問を抱いていたようです。朔郎は疑問を抱くだけの知識を有していました。なぜなら、卒業した東大工学部前身の工部大学校(Imperial College of Engineering, Tokei)において、世界最先端の工学を習得していましたから。

次回は、その工部大学校について私田邉康雄が理解しているところを説明します。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年08月21日 07:43 |

« 前の記事 | 次の記事 »

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




youtue

京大OB・OGガイドブック

初回メール相談無料

エントリー検索

 

カテゴリー

アーカイブ

労働安全衛生マネジメントシステム

田辺コンサルタント著書の書籍紹介

商店街の街並み設計

田辺コンサルタント・グループ
代表取締役 田邉康雄
〒140-0014
東京都品川区大井6-20-6
TEL 03-3776-2495
FAX 03-5742-7695
お問合せフォーム

このブログを購読