生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

« 読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、曾孫田辺康雄が語る(26) | メイン | 読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、ひ孫田辺康雄が語る(28) »

読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、曾孫田辺康雄が語る(27)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、さらに語ります。

国道の「第一生」、倒幕の志士の途中、長州騎兵隊から「第二生」、京都復興を語っています。そして京都復興の柱は何といっても琵琶湖疏水です。そしてこれは、田邉朔郎なしには語ることはできません。

前々回、「次回は田邉朔郎の工学の幅を紹介します」と書きましたが、少し回り道をしましたが今回書きます。

前回(24回)、田邉朔郎は、日本初の急速濾過方式(蹴上の)浄水場の設計・建設を指導したと書きました。

「土木エンジニアが?」
と、訝しく思われるのは当然です。しかし考えてみてください。土木エンジニアが、日本初の売電事業用水力発電所(京都蹴上発電所)設計したのです。日本初の急速濾過方式浄水場を設計してもおかしくはありません。

―― 私が育った京都の朔郎の旧宅には、化学実験室がありました。ここで朔郎は、蹴上浄水場の急速濾過装置の設計データを採取していたものと思われます。

 ―― エンジニア(工学者)田邉朔郎の言葉
「私は土木技術者ということになっているが、あの時代、技術者が専門技術だけをもっていても何もできなかったのだ。今は技術が細分化されて、それぞれ深く研究されているが、技術者たる者は自分の専門技術だけにかかわっていてはいけない。常に視野を広く興味と関心を持つべきである。これは、今も昔も変わらない技術者の心得である」と。

―― 冶金エンジニア有賀敏彦
これは母の弟、即ち、叔父です。京都帝国大学工学部冶金科に在学中に朔郎夫妻から何度も夕食を誘われて自宅を訪問しました。そのときに朔郎から直接聞いたことばでした。

「第一琵琶湖疏水を建設する際、必要とするレンガを自ら焼いて作った」という話を聞いて、「先生は土木エンジニアではなかったのですか?」と聞き直したそうです。
 それに対する朔郎の答えが、前述の言葉だったそうです。朔朗がいう「今」とは、昭和15~17年でした。77~79年も前のことです。

 ―― 化学に興味をもった孫の私、田邉康雄
私は、前述した、祖父朔朗の残した化学実験室の中で化学薬品を弄びました。そして化学に興味をもちました。そして中学二年生の時に化学エンジニア(化学工学者)となることを決めました。以来、80歳の今日まで67年間化学工学者をやっています。

―― 私は、祖父田邉朔郎の言葉を守りました。京都大学工学部燃料化学科、ならびに同大学院修士課程で化学を学びましたが、化学だけに拘わることなく、他の工学分野の実習も積極的に学習しました。

具体的には、強電工学実習、弱電工学実習、機械設計実習、建築設計実習、土木測量実習、地質調査実習などです。これらの習得は、後年三菱化成に入社後、化学プラント設計をする際、大いに役立ちました。

次回は、「第一琵琶湖疏水」と「第二琵琶湖疏水」の意味の考察に戻ります。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年08月18日 08:28 |

« 前の記事 | 次の記事 »

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)




youtue

京大OB・OGガイドブック

初回メール相談無料

エントリー検索

 

カテゴリー

アーカイブ

労働安全衛生マネジメントシステム

田辺コンサルタント著書の書籍紹介

商店街の街並み設計

田辺コンサルタント・グループ
代表取締役 田邉康雄
〒140-0014
東京都品川区大井6-20-6
TEL 03-3776-2495
FAX 03-5742-7695
お問合せフォーム

このブログを購読