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読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、曾孫田辺康雄が語る(26)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、さらに語っております。

国道の「第一生」、倒幕の志士の途中、長州騎兵隊から「第二生」、京都復興を語っています。そして京都復興の柱は何といっても琵琶湖疏水です。そしてこれは、田邉朔郎なしには語ることはできません。前回、「次回は田邉朔郎の工学の幅を紹介します」と書きましたが、少し回り道をします。

―― 榎本武揚が田邉朔郎を、北垣国道に推薦しました(北垣国道日記「塵海」2010年2月20日思文閣出版)。

「なぜ榎本武揚が? それまでの接点は?」。
この、疑問にお答えします。北垣国道は戊辰戦争後、北海道開拓使に出仕しました。その際に旧幕臣榎本武揚と知り合い、意気投合しました。「北海道」は北垣国道にとって「生野の変」以来の「心のふるさと」でした。そして榎本も北海道五稜郭戦争で名を成しました。北海道が結んだ縁でした。

―― 対薩長新政府、「悪の四人組」
これは、田辺太一、榎本武揚、大鳥圭介、荒井郁之助の四人のことです。旧幕府時代から血縁・地縁で結ばれた「仲良し」です。「悪の」とは、薩長新政府に対して最後まで徹底抗戦したので、薩長にとって「悪」という意味です。
年齢と旧幕府外国奉行所時代の外交実績から田辺太一が四人組の親分格でした。因みに、2017年8月16日の現在、木内昇さんが日経夕刊に、田辺太一を主人公とした小説『万波を翔ける』を連載しています。

―― 徳川慶喜、勝海舟と対峙
目付田辺太一は、小栗上野介忠順を支え、将軍徳川慶喜の前で勝海舟と対峙しました。徳川家が薩長軍に恭順して江戸城を明け渡すことに反対し、「徹底抗戦」を主張しました。
しかし何を恐れていたのか、慶喜は恭順に徹していました。太一等は説得できなかったので、榎本等は脱走して北海道函館五稜郭に立て籠りました。太一は下野して横浜に行き、外国奉行所時代の「コネ」をつかって欧米列強国への説明とフランスからの軍資金調達に奔走しました。しかし田邉太一にとっては運悪く、榎本艦隊は冬の低気圧暴風雨によって開陽丸以下、8隻の艦隊は全滅しました。しかたなく、明治2年5月に降参しました。太一は榎本降参後、ただちに徳川家沼津兵学校に一等教授として迎えられました。

―― 明治維新後の四人組
能力ある四人は、降参後しばらくして、いずれも薩長新政府に三顧の礼をもって迎えられ、活躍の場が与えられました。最終的には、榎本は子爵、大鳥は男爵、荒井は中央気象台長、田辺太一は外務大丞(大臣からNo.4)から退官後錦鶏間伺侯でした。 

―― 四人組から田邉朔郎を推挙された北垣国道
田辺太一は、田邉朔郎の育ての親です。因みに現在、朔郎田辺家は太一の祭祀を継承しております。即ち、遺骨を守っております。
その田辺太一以下の四人組から推薦された北垣国道は、最初は半信半疑でした。ところが、やらせてみたら意外によくやることが分かりました。
そこで第一疏水の第一トンネルが貫通した後は、多いに任せました。それが成功の鍵でした。任せついでに自分の長女も任せました。つまり、嫁に出しました。その際、仲人を榎本武揚に依頼しました。

次回は田邉朔郎の工学の幅を紹介します。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年08月17日 08:19 |

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