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読売新聞「(明治)維新の記憶」連載特集、倒幕の志「生野の変」首謀者北垣国道を、曾孫田辺康雄が語る(25)

去る6月27日(平成29年)読売新聞大阪夕刊「(明治)維新の記憶」連載特集(毎月一回)に取り上げられた「1863年、生野の変」に関連して、その記事のためにインタビューを受けた田邉康雄が、さらに語っております。

国道の「第一生」、倒幕の志士の途中、長州騎兵隊から「第二生」、京都復興を語っています。そして京都復興の柱は何といっても琵琶湖疏水です。

――――――――――――――――――――
「日本初の「電車」はインクライン」。
前回(24回)、三大計画の2.において「日本初の電車ということになっている」と書いた理由を説明します。電車とは、「電動客車」または「電動貨車」という定義に従うと、現在、日本の各地で走っているケーブルカーは電動客車であり、電車です。
そしてインクラインは、電動貨車であり、電車です。よって日本初の電車は、インクラインです。京都電気鉄道の電車に先んずること、4年の明治24年稼働開始でした。朔郎の設計によります。後年「鉄道コンサルタント」となった朔郎の最初の作品でした。

―― 田邉朔郎の京都市との御縁
朔朗は第一琵琶湖疏水が完成した年(明治23年)に、東京帝国大学教授として祖先の故郷、東京(江戸)へ戻りました。東京帝大教授の仕事の傍ら、京都市土木事務監督の嘱託を受けました。まだ第一期蹴上水力発電所やインクラインのスタートが残っていたからです。

―― 京都市顧問を引受けた田邉朔郎
さらに、京都帝国大学へ赴任した明治33年に「京都市三大計画顧問」を引受けました。明治41年に起工式が行われ、その時の京都市長西郷菊次郎(隆盛の子)から感謝状をいただきました。明治45年に竣工式が取り行われて朔朗は、時の京都市長川上親晴から感謝状をいただきました。

―― 京都府からも高い御評価
第一琵琶湖疏水と、(第二琵琶湖疏水を含む)京都市三大計画への貢献を高く評価していただき、1923(大正12)年、京都府は「田邉朔郎君紀功碑」を賀茂川と高瀬川の合流点河原に建立して下さいました。
これは朔郎が京都帝大を停年退官した5年後の61歳のことでした。その後、洪水の危険を回避するためにインクライン上部に移転され、隣に田邉朔郎立像が建立されました。

「田邉朔郎の紀功碑と立像は、北垣国道の代わりに建立された」
と、私は考えております。「田邉朔郎君紀功碑」が建立された時、すでに北垣国道は他界していました。京都府は、京都府知事だった北垣国道を顕彰したかったのでしょうが、代わりに娘婿の田邉朔郎を顕彰したと、私は考えております。

曾祖父北垣国道の話の筈が、祖父田邉朔郎の話で長引いています。しかし、北垣国道の「三生」(一生で三回生きたことを意味します)の内、討幕の旗揚げ「生野の変」から、討幕の実戦「戊辰戦争」までの「第一生」は別にして、「第二生」と「第三生」は、田邉朔郎無しには語れません。その「第二生」が、京都復興でした。

―― 北垣国道の遺志
私の曽祖父北垣国道は、私の祖父田邉朔郎を大変可愛がりました。そして、「北垣国道の血筋は朔郎田辺家に託した」と考えていた。そう思い当たる節があるので、国道のためにも朔郎を紹介しています。 

次回は田邉朔郎の工学の幅を紹介します。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年08月16日 09:53 |

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