生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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読売新聞大阪夕刊取材:明治維新の魁(さきがけ)「生野の変」、その首謀者、北垣晋太郎(国道)を、曾孫の田邉康雄が語る。ー(14)

頭書タイトルによる連載記事(今回は第14回)を続けます。曾祖父北垣国道は、勝海舟を「口ほどにもない腰抜け」と評価していたことを書きました。

死線を何度も潜った国道。運命の女神の前で「丁半」博打。命を差し出してサイコロの目に賭けた国道。たまたま毎回「良い目」がでて、農民から男爵に駆け上がった国道。

―― そんな国道の目から見たら海舟は、「度胸もなく、甘っちょろい」と映るのは無理がありません。国道のような命を賭けた「丁半」博打を打つような度胸もなく、明治政府において命を張った働きもせず、泳いで伯爵になった海舟ですから。

―― 国道の影響を受けて私も海舟には批判的です。幕末の江戸城において、対薩長徹底抗戦を主張する小栗上野介忠順を支持し、「しっぽを巻いて逃走」を主張する徳川慶喜/勝海舟と対峙した朔郎の叔父目付田邉太一も終生、海舟を批判していました(田邉朔郎編『蓮舟遺稿集』)。ですから、朔郎田辺家にとっては、海舟は「不倶戴天の敵」です。

「ご先祖様の敵は私の敵。ご先祖さまの味方は私の味方」。
繰り返しましたが、これが私の歴史観です。偏狭をお許しください。

さて、海舟と別れた後の国道を追いましょうーー。
北国諒星著『北垣国道の生涯と龍馬の影』(2014年6月10日北海道出版企画センター発行、p-68)。によると、八木良造(国道)は、「江戸における徳川幕府の詮索が厳しくなったので、長州へ逃げ込んだ」とされています。しかし、八木良造(国道)の足取りは記録に残っていません。ですから、ここから先は、家に伝わる口伝を加えた想像です。

―― 京都再潜入。
禁門の変による大火「どんどん焼け」で焼け野原になった京都に再び潜入。ここには頼りになる長州藩は、既に居ません。
しかし幕府よりも長州藩のほうに民衆の同情が集まっていた京都は、長州派の八木良蔵(国道)にとっては、活動し易い場所だったと思われます。新選組だけを警戒すれば。

―― 鳥取藩密偵
すでに述べたように、生野の変の直後に「鳥取藩密偵」を買ってでいました。勝と会談した後の国道は、またしばらく、これに従事したと思われます。京都において天下の情勢を探り、鳥取藩に報告するものでした。。

―― 新天地長州
しかし戦争の匂いを感じ、名前を柴捨蔵と変えて、長州に行き長州藩遊撃隊に参加しました。もちろん動機は、「戦争で手柄を立てて武士になりたい」でした。
この時期は「長州征伐の勅命」が下った1864(元治元)年7月23日以降、翌年慶応元年1月1日前だと考えます。即ち、幕府による第一次長州征伐の時期に長州へ行ったと考えます。

第14回目は以上です。次回(第15回)につづきます。

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このコンテンツにおいては、自分の意見を述べる、いわゆる「べき論」は、これを避け、私が知っている歴史的事実を紹介しております。
事実とは言え、私見と身贔屓が入っていることはお許しください。「歴史認識はひとり一人異なる」。「異なってよい」。これが私の姿勢です。


投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年06月23日 09:24 |

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