生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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読売新聞大阪夕刊取材:明治維新の魁(さきがけ)「生野の変」、その首謀者、北垣晋太郎(国道)を、曾孫の田邉康雄が語る。ー(10)

頭書タイトルによる連載記事(今回は第10回)を続けます。前回(第9回)、晋太郎の討幕戦争における奮戦ぶりを紹介すると書きました。その奮戦ぶりは以下の通りです。

―― 運命の分かれ道
一緒に逃げた平野国臣と山の中で分れました。国臣は右へ、国道は左へ。右へ逃げた国臣は捉えられ、他に捕縛された人を加えて33人は、翌年の「蛤御門の変」の後で見せしめのために斬首されました。

―― 八木良蔵
北垣晋太郎(国道)の変名です。晋太郎の生家近辺の地名をとりました。左へ逃げた国道は、鳥取池田藩に潜入しました。もしも(If)国臣とともに右へ逃げたら、国道は斬首。京都の「琵琶湖疏水・蹴上水力発電所」はなかったでしょう。だから明治の「京都市復興」は遅れていたでしょう。現在の、歴史とハイテクが共存する、世界でも「ユニークな京都」は無かったでしょう。

―― 歴史の“If.”
それだけでなく、国道のDNAを1/8だけ受け継いでいる私田邉康雄もいませんでした。私の三人の子供もいませんでした。
さらに、五人の孫もいませんでした。国道の血を受け継いだ(故人を含め)約100人以上が居ませんでした。これは世の中にとっては大した問題ではないのですが、私や一族にとって大きな問題です。
人間の一瞬の判断が後の世の中に大きな影響を与えると知って身の引き締まる思いがします。左へ逃げた曾祖父国道に感謝です。

―― 鳥取池田藩
左へ逃げた国道は、八木良蔵の名前で鳥取池田藩に潜入しました。鳥取藩は徳川将軍家の準親藩ですが、当時の藩主は徳川慶喜の兄であり、「尊皇」と「佐幕」の微妙な藩論下にあったそうです。「どちらに加担しようか?」と、態度を決めかねていたそうです。

―― 鳥取藩密偵
北垣晋太郎(国道)は、徳川幕府の「指名手配」を受けているにも拘わらず、鳥取藩の密偵を買ってでました。鳥取藩のニーズが「天下の情勢把握」にあると見たのです。そして、勝手知った京都へ忍び込みました。徳川幕府の「指名手配の身でありながら、なんと大胆なことではありませんか。

第10回目は以上です。次回(第11回)以降、晋太郎の「一連の戦争」における奮戦ぶりを紹介しましょう。

このコンテンツは、私田邉康雄が有限会社田辺コンサルタントグループのホームページにブログに載せ、同時にSNSのツイッターとフェイスブックによって発信しているものです。さらに、名刺交換した方々等にメールマガジンで発信しております。

このコンテンツにおいては、自分の意見を述べる、いわゆる「べき論」は、これを避け、私が知っている歴史的事実を紹介しております。
事実とは言え、私見と身贔屓が入っていることはお許しください。「歴史認識はひとり一人異なる」。「異なってよい」。これが私の姿勢です。

次回(11回目)に続きます。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2017年06月19日 08:29 |

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