生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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「余はここにある。皆のもの駿府へ集まれ!」徳川家康

~平成の徳川家臣団大会2015in駿府~

<徳川家康公歿400年祭>
先週金曜日(2015年4月16日)、静岡市にある静岡県コンベンションツアーセンター(グランシップ)中ホールにおいて、約1000名の参加者を得て開催されました。

―― 德川宗家第18代徳川恒孝様が「御成り」になり、徳川家臣団子孫の「柳営会」会員約40名は、「お目見え」を賜りました。

―― 静岡新聞社が、タイトル「徳川家臣団子孫たちの証言」という記念本を発行しました。証言者は14名であり、私の証言も採用してくれました。

―― 第一部は、子孫9名による「若き家康を支えた家臣たち」、そして第二部は子孫7名による「家康のもとで活躍した家臣たち」です。恒孝様が巻頭言を書き、テレビによく出演される小和田哲夫先生が監修をされました。私は第二部に採用され、タイトルは「旧武田家臣 国宝を守った忠臣・田邉忠村の子孫 田邉康雄」です。

―― 武田家が信長・家康連合軍によって攻撃された際、天目山で自刃する武田勝頼公に最後まで従った家臣は僅か約40名でした。武田24将の23将までが離反しました。しかし忠村は、軽輩にも拘わらず、また譜代家臣でないにも拘わらず勝頼公が御自害自されるまで従いました。

―― 勝頼公は自刃の際、「これを敵に渡したくない」と鎧と旗を託されました。黒川金山衆の頭であった忠村は、天目山付近の地理に詳しいので、安全なところまで運んで隠しました。

―― 家康公は、「忠臣の子は、忠臣」というお考えをもっておられたので、忠村を徳川家臣に加えました。

―― 確かに忠村の子孫は忠臣でした。幕末の徳川家目付田邉太一(朔郎の叔父)は、江戸城内徳川慶喜の御前会議で勘定奉行小栗上野介とともに「対薩長徹底抗戦」を主張し、幕府を薩長に売り渡そうとする勝海舟と対峙しました。しかし臆病、かつ、優柔不断な慶喜の前では論破れて下城しました。

―― 太一は、譜代幕臣でないにも拘わらず、戊辰戰爭において薩長軍に抵抗しました。幕府外交官だった経験を活かして徹底抗戦の同志、榎本武揚等の函館戰爭を「外交面」と「資金面」で支援を試みました。

―― 榎本武揚等が部下の助命を条件にして降伏した後、ただちに徳川家沼津兵学校の一等教授となり、徳川家の再度の隆盛を期しました。

――しかし、太一は薩長新政府から三顧の礼をもって外務省No.5の外務少丞として迎えられました。300年前の忠村を彷彿とします。

「人を裏切らず、地道に生きる」。これが武田家臣、徳川家臣時代を通じた田邉家の伝統です。私も78歳の今日まで、人を裏切らず、地道に生きてきました。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2015年04月26日 20:33 |

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