七運うどん
1) 昨日22日は冬至でした。私を育ててくれた田辺家にはこの日に「七運うどん」(添付写真)を食する伝統があります。
2) 私の祖父の祖父、田邉石庵が徳川家昌平坂学問所(昌平黌)教授の職の傍ら、石庵塾(私塾)を開いていました。毎年冬至の日に七運うどんを弟子達に振る舞い、弟子達に「勉学に励んで運を開こう」と激励したそうです。地方の藩から来ているお弟子さんは、これを食して後、来年の再会を期して各人それぞれの郷里へ帰ったそうです。
3) 田辺家は、もともと甲斐武田家団の「黒川」金山衆12家のひとつであり、もともと「武芸」ではなくて金採掘「技術」で暮らしていたのですが武田家滅亡の後、德川家康公に拾われて德川家臣団の1人に加えてもらいました。いわば中途採用ですので、最初は家康公の忠臣鳥居元忠の家臣、そして次に伊丹家の家臣、すなわち陪臣でした。しかし伊丹家が断絶したので、浪人しました。しかし又、德川吉宗公の時代に幕府が大番与力(現米200俵=80石)という御家人身分で雇ってくれました。恐らく天目山における武田勝頼自刃の際に、「軽輩ながら最後まで従った」という忠義の田邉忠村の子孫であることが買われたものと思われます。田邉忠村は自刃する勝頼から家伝の「楯無鎧」を預かり、勝手知った黒川金山の中に隠しました。後に家康公が回収して鄭重に扱い、現在国宝となっています。
4) 江戸時代も後期になると、武芸ではなくて、学問で生きる世の中になりました。身分は御家人であっても知的能力の高い人は幕府によって活用されました。それを「出役」といいます。田邉石庵は書院番与力という御家人身分のまま、旗本でもなかなか成れない「昌平黌教授」へ出役を許されるという大きな職を得ました。田辺家において、「学問をすれば運が拓ける」という事実を実証した最初の人とも言えます。その意味での学問の家(=技術の家)田辺家の始祖とも言えます。
5) 田邉石庵塾の塾生には、有名な榎本武揚もいました。武揚様も「七運うどん」を振る舞われた筈です。
6) 私は、健康法として夕食に澱粉質を食しないことにしているので、本日23日「天長節」の昼食に、今上陛下の末ながき御健康を祈念しつついただきました。写真を添付します。