生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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韓国は日本と米国の支援によって円滑に独立できました(68)。

~ マッカーサー配下の米軍は、日本の官僚制度をそのまま韓国に引き継がせた。
  <日本は朝鮮半島を「植民地」として「支配」は、これをしていません>
           ~ 「植民地支配」の否定 ~

釜山に住んでいた父田邉多聞の、終戦直後の日記です。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
12月13日
本日最後の引揚列車 2,016列車運転、この間六輌に主として本局員引き揚げてくる。本局田中総務課長より電話あり。解職について近日中に正式許可がでると始めて明らかにして来たので、夜局長官舎に局の部長幹部を招び慰労の宴を設け解散会とした。

12月15日
ライト中佐に右の帰国許可につき問合せると現地40師団の意向を確かめるから同行せよと言ってくる。その結果、今夕五時師団長が京城のホッジ中将の意向を尋ねた上指示するとのことであった。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
以下は私田邉康雄のコメントです。

「解職」とは、「鐡道運行を朝鮮半島人に引き継いだので日本に帰ってよろしい」という、米国朝鮮占領軍の許可を意味します。

「師団長」とは釜山地方に駐屯している米第40師団の師団長のことです。40師団は、米第24軍団に属し、これが朝鮮占領軍であり、その司令官はホッジ中将です。ホッジは東京にいる米極東軍総司令官マッカーサーの配下にありました。

―― 父田邉多聞は、京城の本局から電話で「解職は近い」と聞いただけで部課長を集めて「解散会」を設けました。これは「部課長は先に帰えってよい。米軍に対しては自分が責任を取る。そして自分が殿(しんがり)を勤める」と宣言したものです。事実(後で書きますが)「部課長は、思い思いに帰国していった」と父は書いています。

―― すでに書きましたが、敗戦後最初に父が総督府から受けた指示は、敗戦翌日(8/16)の「朝鮮総督阿部信行陸軍大将の家族帰国のために機帆船を準備せよ」でした。そして日本の朝鮮駐屯軍の司令官でもあった阿部信行は、部下の兵卒を残したまま日本人に帰国しました。これと好い対照でした。

父は朝鮮総督府交通本局長の配下の「地方局長」に過ぎませんが、ホッジ率いる米朝鮮占領軍に朝鮮総督府の全ての幹部職を襲われて交通本局が機能を果たさない今、本局全体帰国の殿(しんがり)を勤めるのです。軍隊に例えていうと、軍団長の配下の師団長が、自ら軍団の殿(しんがり)を勤めるのです。越前「朝倉義景」攻めに際して北近江「浅井長政」の裏切りにあった織田信長軍が京へ敗退する際、秀吉軍が殿(しんがり)を勤めた故事にも匹敵します。

なおこの時点で父は、家族(妻と子三人)をすでに帰国させています。その理由は以下の通りでした。即ち、敗戦前年の9月に祖父田邉朔郎(琵琶湖疏水の建設者)が、つづいて敗戦の年の3月に祖母静子(琵琶湖疏水の建設推進者北垣国道京都府知事の長女)が、京都の実家で死亡したので、その実家を守るために帰国させたものであり、阿部大将の事情とは異なります。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
―― 次回は(69)です。田邉康雄

投稿者: 田邉康雄 日時: 2014年07月30日 10:39 |

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