生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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韓国は日本と米国の支援によって円滑に独立できました(46)。

~ マッカーサー配下の米軍は、日本の官僚制度をそのまま韓国に引き継がせた。
  <日本は朝鮮半島を「植民地」として「支配」は、これをしていません>
           ~ 「植民地支配」の否定 ~


釜山に住んでいた父田邉多聞の、終戦直後の日記です。

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11月14日
広鉄貨物課長梶本氏及び下関管理部長岡本氏来訪、連絡船並びに埠頭業務打合せ。長らく止まっていた釜山水道漸くでるようになる。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
以下は私田邉康雄のコメントです。

水道が止まっていたとは、さぞ困ったことでしょう。

と、第三者のようなセリフを吐いていますが、実はこの時点で私は長野県上伊那郡南箕輪村南殿に居ました。8月の敗戦を待たず、5月に京都へ引揚げました。理由は以下の通りです。

昭和19年9月に祖父田邉朔郎が京都の自宅で亡くなり、さらにその5ヶ月後の20年2月に祖母田邉静子がなくなりました。

―― 住み込みの家僕と女中さん一家が「離れ家」に住み、かつ、台湾出身の京都大学工学部土木工学科の学生さんが書生として住んでいましたが、父親は嗣子ですから任せっぱなしと言う訳には行きません。そこで父親は、母と私の兄弟三人を京都へ帰したものでした。

―― 京都の実家は、左京区の真如堂の前にありました。ここに落ち着き、私は市立第三錦林小学校の三年生に転校しました。

―― 敗戦を三か月先に控えて「警察力」が低下した為でしょうか、一部の人達の子供達が先生の手に負えない状態に振る舞っていました。その子供達の攻撃の鉾先は、転入生に向けられ、私は恰好のターゲットになって酷い、暴力的「苛め」に遭遇しました。

現在学級における「苛め」が問題となっていますが、私が受けた苛めに比較すると、大したことはないと思っています。それほど酷い「暴力的」苛めでした。同級生は、何の助力もしてくれませんでした。おそろしくて、できなかったのです。

―― 8月6日に広島原爆投下があり、母親の判断により、8月8日に母親祖父有賀光豊の、長野県南箕輪村南殿の実家に疎開しました。そして一週間後の15日が敗戦でした。天皇陛下のお言葉をそこで聞きました。母親は泣いていました。私は、何のことが分かりませんでした。

―― 整理すると、私は5歳4か月の時に、大本営発表の「我が帝国陸海軍は、西太平洋上にて米英と戦闘状態に入れり」を聞き、9歳0ヶ月で敗戦の御言葉「耐えがたきを絶え・・・」を聞きました。

母親は、開戦時に「大変なことになった」とうろたえ、敗戦時に泣きました。日本の置かれた情勢をかなり正確に把握していた母親だと思って、その点は尊敬しております。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
―― 次回は(47)です。田邉康雄

投稿者: 田邉康雄 日時: 2014年04月13日 21:38 |

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