生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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<横須賀製鉄所>  徳川幕府が創った造船所であり、現在の「横須賀基地」の前身です。


その歴史は以下のとおりです。

1865(慶応1)年 徳川幕府横須賀製鉄所完成
1871(明治3)年 薩長新政府横須賀造船所設立
1903(明治36)年 大日本帝国海軍工廠設立

そして横須賀製鉄所を建設した功労者は、勘定奉行小栗上野介でした。財政破たんに直面している幕府において、その財政の責任者である勘定奉行が、財政立て直しよりも国防に力を入れたものでした。当時の貨幣で250万ドルも投じたそうです。現在の感覚でいうと、1000億円ぐらいでしょうか。このことは田辺太一著『幕末外交談』(1898(明治31)年発行)の439ページにその設立経緯が詳細に記述されています。

―― 著者田辺太一は田辺家の分家です。私が生まれた家は徳川譜代旗本家です。ですから私はその子孫の会『柳営会』の会員です。旗本とは幕府直属の「軍隊」のことです。
徳川時代も中期になると平和となって「武」よりも「文」が重んぜられ、この動きに応じて私から七代前の田辺貞斎からは学者として名を成してきました。そして五代前の田辺石庵(高祖父)は幕府学問所教授でした。

―― 学者の家ですが、四代前の田辺孫次郎(曽祖父)は、ペリーの黒船来航以前から「国防」には多大な関心を持ち、高島秋帆について西洋砲術を学び、幕府講武所(陸軍)を創立して近代化した陸軍を創設し、砲術科の教授をしていました。しかし残念ながら幕末の動乱を待たず病死しました。

弟の田辺太一は、兄の遺志をついで儒学者教授の職を捨て、長崎海軍伝習所で榎本武揚(後外務大臣、文部大臣等を歴任して子爵)、荒井郁之介(後初代中央気象台長【現在の気象庁長官】)、赤松則良【海軍造艦中将男爵】)等と共に西洋航海術を学び、江戸にもどって幕府外国奉行所に勤務しました。その間二度も遣欧使節団に組頭(実務の長)として参加しました。外交面から国防に尽くしたものです。
明治になって薩長政府からその外交面における国防の実務知識を買われて出仕を請われ、新政府高官として活躍しました。冒頭で紹介した『幕末外交談』は退官した後で著述したものでした。

「平和は勝ち取るもの」
 と、田辺家の人間は考えております。源平時代の田辺湛増(紀伊国の熊野神社別当、藤原湛増。現在の田辺市に住んだので田辺湛増と呼ばれた。紀伊水軍を率いて源義経に加勢して壇ノ浦の勝利をもたらした)以来800年間、現に「平和を勝ち取り」ながら生きてきました。
幕末においても分家田辺太一は、小栗上野介の対薩長徹底抗戦論を、榎本武揚、荒井郁之介(太一の義兄)、大鳥圭介とともに支持して戊辰戦争を戦い、函館五稜郭戦争で力尽きました。文字通り、明治という「平和」を、命を賭けて勝ち取りました。

中久保勲様が投稿された横須賀軍港の写真を利用して私の思うところを開示させていただきました。ありがとうございました。

中久保勲様の投稿写真は以下の通りでした。
★ 国防最前線「米海軍第7艦隊!」
横須賀基地を母港とする世界最強の艦隊。太平洋のジャイアンとして、海上自衛隊と共に支那及び北朝鮮に睨みをきかせ、対峙する。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2013年12月28日 12:47 |

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