生涯現役エンジニアブログ

生涯現役を保つには何が必要か。齢70、自ら実践している筆者が失敗例を交え生涯現役エンジニアの実例を見せ、また新資格制度を提案します。

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韓国は日本と米国の支援によって円滑に独立できました(6)。

~ マッカーサー配下の米軍は、日本の官僚制度をそのまま韓国に引き継がせた。
  <日本は朝鮮半島を「植民地」として「支配」は、これをしていません>
           ~ 「植民地支配」の否定 ~

私の父親、田邉多聞著の大東亜戦争に関する総括はまだまだつづきます。『朝鮮交通回顧録(終戦記録編)第四章 釜山地方交通局管内』(1976年、鮮交会発行)の書き出しの部分でございます。

―― 敗戦時の父は、家族を離れて一人で釜山の局長官舎に居ました。今なら単身赴任というところでしょうか。しかし女中さん2人と男の用務員1人、そして秘書官家族の官舎が隣接し、かつ、公用車の車庫と運転手家族の官舎も隣接していましたので、日常生活に不足するところはありませんでした。

―― 父の家族はどうしていたのでしょうか? 実は敗戦の三か月前に京都へ引き上げたのでした。昭和19年9月に祖父田邉朔郎が、そして20年3月に祖母静子が京都の実家で相次いで亡くなったので、実家を守るために子供三人は母とともに引揚げたものでした。
まだ戦争中であり、玄界灘には米軍潜水艦が出没している時期です。命がけの帰国でした。救命衣を着たまま就寝しました。後年母は、一睡もできなかったと回想しています。引揚げ船は、「徳寿丸」(3600トン)でした。

さて父は言います。

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 このように敗戦后に起こる社会状態について、全く常識が欠けていたのであるから、朝鮮においても我々同胞は、いよいよ敗戦を迎えてこれからどういうことが起こってくるのか、全く見当がつかないでぼんやりと虚脱状態で一ヶ月くらい過ごしてしまったというのが真相であった。今当時の日記を追って釜山地区の終戦前后の顛末を適記することにする。

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以上が前置きであり、以下終戦記録がつづきます。

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戦況が不利になって行くに連れて船舶は次から次へと撃沈されて行って、もはや海洋航海に適する大型船舶は無くなってしまい軍需工業原料、食糧は朝鮮経由大陸に求める外ないこととなって来た。この輸送の大任に当たったのが、わが鮮鉄であったが、かっては大陸作戦の準備として満州へ軍隊を送るために拡充整備されてきた朝鮮鉄道は、逆に満州北支から重要物質を内地へ送るために役立つこととなった。こうした傾向が漸くはっきりしてきたのが、昭和17年の末であり、鮮鉄はまさに我が国の輸血路となってきたのである。殊に船舶の極度の不足を補うためには陸上側で、あらゆる犠牲を払って港湾荷役能力を上げて船舶回転率を高めなければならないという至上命令を受けていた。このためわが鮮鉄ではかねてから満鉄の大連埠頭における運営方式を採り入れて、鐡道による港湾の一元運営の必要を強調していたのであったが、総督府としても事の重大性に鑑み抜本的な理想的交通行政の一元化に踏み切り、鮮鉄を主体として交通局を新設することとなった。昭和18年12月1日のことである。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

次回は(7)につづきます。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2013年12月14日 07:19 |

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