生涯現役エンジニアブログ

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<生野義挙150記念式典、ならびに墓前祭>  ~ 義挙の首謀者、北垣晋太郎(国道)の曾孫として招待された ~

 先月下旬(2013年11/23[土]~24[日])、兵庫県朝来市が、頭書の式典/墓前祭を開催しました。私は義挙に参加した「主たる」義士の子孫として朝來市多次勝昭市長から招待を受けました。

 義挙の同志、「平野國臣」の子孫に次いで二番目の席を指定され、着席して司会者から「義士北垣晋太郎の曾孫」として紹介されました。式典には自刃した義士の縁者の方々が約20人来ておられましたが、紹介されたのは、もう一人「小山八郎」でした。
小学生による劇「生野の変」はとても面白く、感激しました。式典では表彰式(写真)が行われました。

 式典後に開催された交流会においては、私は朝来市長の直近に席をしつらえていただき、教育長から御挨拶を受けるなど、多くの方々と交流を重ねました。
 翌日は義挙において「こと敗れて」自刃された義士の方々の150周年墓前祭(写真)が開催され、私は式典同様、平野国臣の子孫の方の次席に座りました。そして平野國臣の子孫の方が追悼の辞をのべられました。

「生野義挙」とは、高校教科書にも載っている「生野の変」のことです。これに関して御存じない方もおられると思うので以下に平凡社百科事典の記載を参考にして説明します。

 ―― 「生野の変」とは。
 三条実美が企画した明天皇行幸を迎えるため中山忠光卿を「総大将」に仰いで討幕の旗を「天誅組」が挙げた。これに呼応して、筑前藩士「平野國臣」が但馬に来り、北海道防衛のために2000人の農兵を組織していた庄屋・郷士『北垣晋太郎』を、生野代官所を襲撃しようと誘った。
 平野は北垣と共に、「8月18日の政変」後に長州へ落ち延びた三条実美(後太政官時代の明治政府のトップ太政大臣)等「七卿落ち」の一人、「沢宣義(後の外務大臣)」を長州三田尻にまで迎えに行った。
そして長州藩士10名余とともに生野に帰り、沢宣言義卿を担いで徳川幕府生野銀山を占拠し、討幕の実を上げんとした。ところが孝明天皇の大和行幸が中止となり、天誅組が幕府によって平定された。この影響を受けて「生野銀山占拠」も同様に平定された。
 平野國臣他十数名は捉えられて京に連行され、「禁門(蛤御門)の変」の際に幕府の手によって斬首された。長州藩出身の首謀者は全員自刃したが、但馬出身の北垣晋太郎と進藤俊三郎の二人は生き延びた。
 北垣晋太郎は「北垣国道」と、進藤俊三郎は「原六郎」とそれぞれ名を変え戊辰戦争から明治の世を共に成功裏に生き延びた。原六郎は数多くの事業を立ち上げて渋沢栄一と並び称せられる財界の一人者となった。特に横浜正金銀行を頭取を引き受けて再建し中興の祖と言われた。(北垣国道に関しては後述するのでここでは省略)。

 ―― 以上が百科事典の概要ですが、北垣晋太郎に関して私が知っていることを紹介します。長州藩士を主体とする多くの志士は「生野の変」が失敗した後、現場で自刃しましたが、「北垣晋太郎」は生き延びて鳥取藩に逃げ込みました。
 北垣は名前を「八木良造」と変えて京で勤王志士として活躍し、江戸にも行って千葉道場で千葉重太郎と昵懇になり、勝海舟や坂本竜馬とも息投合して討幕を画策しました。水戸の「天狗党の乱」ではその収拾斡旋に走り、その後名前を「柴捨蔵」と再度変えて山縣有朋隊長時代の長州奇兵隊に入隊し、「禁門の変」を経験して戊辰戦争では鳥取藩に帰参して西園寺公望総督の下で山陰道鎮撫隊に参加しました。さらに北陸道鎮撫隊に参加して西園寺公望総督、山縣有朋参謀、黒田清隆副謀の下で鳥取藩第12番隊長となり、新発田藩攻めから会津藩攻め越後口の攻略に当たりました。その後江戸にもどり、錦旗を掲げる有栖川宮熾仁親王とともに京へ凱旋しました。
 
 明治維新後は「北垣国道」と四度目の変名を行なって明治政府に出仕し、長州派の有力政治家として活躍しました。戊辰戦争時代の西園寺公望、山縣有朋、黒田清隆等との太い絆を活用し、北海道開拓使、熊本県副知事、高知県知事、徳島県知事、京都府知事(槇村知事の後任)、北海道長官、拓殖務次官、内務次官を適任して枢密顧問官男爵となり、83歳で京都において死去しました。
北垣国道は、京都府知事在任中に旧幕府旗本、田邉太一、榎本武揚、大鳥圭介、荒井郁之助が押す「田邉太一の甥」、幕臣田邉朔郎に琵琶湖疏水計画をまかせて成功さました。
 成功後、国道は自分の長女静子を田邉朔郎に嫁がせました。その際文部大臣榎本武揚が媒酌の労を取りました。この静子が、朔郎の嗣子である私の父親多聞(現在日記を連載紹介中)を生み、多聞が有賀光豊(朝鮮半島に尽くした人)の長女美佐子と結婚して私田邉康雄を生みました。

 ―― 命がけという言葉がありますが、北垣国道は本当に自分の命を運命の女神の担保に入れました。そして「日本の独立維持」という大義のために「丁とでるか半とでるか」サイコロを振りました。振ったサイコロは全てよい「目」がでました。その度胸に脱帽するとともに、そのような肝っ玉の太い豪傑人のDNAをこの身に1/8も継承していることを思うと「身の引き締まる」思いがします。

 鰤(ぶり)は「イナダ」「ワラサ」「ハマチ」「ブリ」と大きくなるにつれて名前が変わる故に「出世魚」と呼ばれています。北垣晋太郎も、「八木良造」(江戸千葉道場)、「柴捨蔵」長州奇兵隊から北越戦争)、そして「北垣国道」(明治政府)と名前を変え、農民(郷士)身分から武士身分へ、武士から明治政府高官へ、そして正二位男爵枢密顧問官と出世しました。なんと「農民」が「貴族」にまで出世したのです。まるで今太閤のような「出世人」でした。しかし私有財産を残すことなく、全て国家のために投じました。このことを曾孫としては誇りに思っています。

 ―― その前日、静岡市で開催された「徳川慶喜公」100年祭に出席し、その足で生野に行ったものです。慶喜公は徳川幕府を瓦解させた方です。
 私田邉康雄は徳川将軍家譜代旗本の子孫であり、柳営会の会員です。祖先は徳川幕府のお世話になっているのですが、徳川幕府を倒した人(北垣国道)の子孫でもあります。しかし同じ倒した人であっても、「逃げ回わる」ことによって結果的に幕府を倒した徳川慶喜には強い共感を抱いてはおりません。北垣国道のように、自らの命を懸けて積極的に幕府を倒した人、に強い共感を抱いております。身内贔屓はお許しください。

投稿者: 田邉康雄 日時: 2013年12月13日 18:59 |

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