「日本カーリット(横浜) – 爆発 –安全技術の伝承」
このブログを、「森田化学 – 爆発 – 安全技術の伝承」のブログに平行して書いています。
―― 安全技術の伝承に関連して私の父親田邉多聞の事例を紹介しています。「関係ない」とお思いでしょう。しかし何のために紹介しているかは、いずれ分かって頂けます。
―― 父多聞は、昭和20(1945)年8月15日の敗戦時、旧朝鮮総督府鉄道本局釜山地方交通局長(朝鮮半島の南半分のすべての交通機関を統括する局)でした。
官吏区分でいうと(天皇陛下の玉璽捺印を持って任命を受ける)いわゆる直任官区分に入る高等官二等(官位正五位)の地位にあり、閣下と呼ばれていました。
当時私は、小学校一年生から三年生の時期でしたが、父親が肩で風を切ってあるいている姿をよく記憶しています。
―― 敗戦後、米軍(進駐軍)の依頼を受けて在朝(南朝鮮)邦人80万人の速やかなる内地引き上げプロジェクトに協力し、4ケ月でこの大プロジェクトをやり遂げました。そして1945年12月に、京都に琵琶湖疏水建設者祖父田邉朔郎が残した大きな屋敷に引き上げました。
―― 引き上げに際して米軍は感謝の気持ちを込めて釜山の局長官舎にあったすべての家財道具を京都へ運んでくれました。ですから私どもは、終戦後外地から母親の嫁入り道具であった箪笥までも内地へ持ち帰った唯一の家族です。この箪笥は、私がいまでも記念品として所持しています。
―― 敗戦時、多聞は47歳でした。朝鮮総督府鉄道局から引き上げた職員は、原則として内地の鉄道省が引取りました。しかし田邉多聞は地位が高すぎたので引取り対象から外されました。しかし幸いなことに京都市交通局長を拝命しました。
ここからが本論であり、次欄で紹介します。
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