現在、工学博士を取得しても、そのことだけでは生涯現役エンジニアはやれません。「靴の裏についた飯粒」と皮肉を込めた批判がされています。
「取らないと気になるが、取っても食えない」
というのがその「心」だそうです。
私も「取らないと気になって」いたので一時は、博士論文を書くことを計画しました。しかし高い障壁があることに気がつきました。
―― 企業人が博士になるには大学大学院の博士課程に留学させてもらうか、あるいは大学へ論文を提出して審査してもらうかの2ルートがありました。
私が考えた時点はすでに50才を過ぎてからのことでしたから留学はありえません。一方、論文のテーマは多々ありました。
―― ところがテーマ内容を学会誌に発表しなければならないことに気がつきました。しかしこれは許されませんでした。
なぜならば私のエンジニア実績6件は、全て三菱化学の現有プラントとして稼動中であり、三菱化学の方針として稼動中の技術内容を発表することは許されませんでした。
―― このことを京都大学工学部燃料化学科新宮春男研究室の兄弟子、乾智行教授に伝えて断念しました。
乾智行先生は、「自分が教授になって最初に授与する博士を田辺君に出したかったが、残念だった」といわれました。乾智行先生のこの御一言は、私にとって博士号を授与されるよりも重みのあるものでした。
―― 話もどって、現在「靴の裏についた飯粒」の博士ですが、明治時代の博士は大変なものでした。「末は博士か大臣か」と言われていました。
田邉朔郎は、これを29歳の若さで授けられました。博士論文は、もちろん琵琶湖疏水がテーマでした。詳述すると1891(明治23)年8月に工学博士を授与され、同11月3日、帝国大学工科大学教授となったものでした。
―― 帝国大学工科大学派1886(明治19)年に工部大学校が帝国大学に編入されたものであり、東大工学部の前身です。1861年11月1日生まれに田邉朔郎はこの時29才でした。すなわち29才で東大教授です。
この話に関しては、拙著びわ湖疏水にまつわる、ある一族の話http://www.bk1.jp/review/0000445315の44ページ「最年少の博士誕生」の項で紹介させていただきました。







