「シベリア鉄道がウラジオストックまで開通する時期を調査せよ」
と、桂太郎陸軍大臣と大山巌参謀長は田辺コンサルタントの祖父、田邉朔郎に密かに命令を下しました。
「シベリア鉄道がウラジオストックまで開通する時期を調査せよ」
と、桂太郎陸軍大臣と大山巌参謀長は田辺コンサルタントの祖父、田邉朔郎に密かに命令を下しました。
―― 祖父田邉朔郎は琵琶湖疏水工事の後、東大教授をしていましたが、北海道開拓庁長官をしていた朔郎の岳父北垣国道に請われて東大教授を辞して北海道庁開拓庁鉄道敷設部長を引受け、全北海道に鉄道網を計画し、工事を担当しました。
ですから鉄道敷設の専門家です。密命を与えるには最適の人物です。この密命は、北海道全線がほぼ完成したころのことでした。
―― 1900(明治33)年1月30日、田邉朔郎は山縣有朋総理大臣の会見を受けました。同年5月桂太郎陸軍大臣を訪問し、同5月28日に東京を出発しました。
―― 径路は以下の通りでした。
長崎 → 釜山 → 元山 →(ロシア入国)→ ウラジオストック→ (殖民鉄道)→ ハバロフスク → (黒竜江を舟で溯上) → ブラゴベスチンク → ストレテンスク→ (粗造建築列車) → チタ→ミソワヤ→ (バイカル湖上列車輸送船) → バイカル → イルクーツク → (シベリア鉄道) → クラスノヤルスク → オムスク→ チェリアビンスク → (シベリア鉄道西端)→ モスクワ → ペトログラード → (ロシア出国) → ストックホルム
帰国後、――
「現在シベリア鉄道はモスクワからバイカル湖以西が整備されているが、これがバイカル湖以東「清」国境まで整備され、さらに「清」国内の大興安嶺トンネルが完成してチチハル、ハルピンなど東清鉄道を経由してウラジオストックにまで整備される時期は明治38年中。――」
と、田邉朔郎は山縣有朋総理大臣に答申しました。
―― これを受けた桂太郎内閣は、1904(明治37年2月)を開戦時期と決定しました。もしも開戦時期が遅れていたら1938(明治38)年3月の奉天会戦の勝利はなかったでしょう。
この史実を拙著:「生涯現役エンジニア」http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31832743の26ページ、「シベリア鉄道」の項で紹介しました。







