静岡で与えられた石高は70万石でした。これでは全幕臣の生活はできません。幕臣の憤懣やるかたなく、薩長軍に対する復習の念に燃えたでしょう。
そこで沼津の地に兵学校を開設して、近代兵器による訓練を続行しました。兵器の研究も続行しました。幕府講武所にその基盤があったのです。
―― 「御貸し人」を派遣してださい。
と各藩から依頼をうけました。
「先生でなくてもよい。生徒でよいから貸してほしい」
と請われたものです。とくに薩摩藩へ派遣した御貸し人が多かったと記録されています。
―― 明治になって大村益次郎の査察を受け、解散を命じられて新政府軍に編入されました。新政府にとって「危険」と思われたのでしょう。







